皇太神社と名乗った時期と理由は? ![]() | |
読み方 | こうたい-じんじゃ(にしなかじま) |
所在地 | 名古屋市中川区西中島1丁目1106 地図 |
創建年 | 1624-1643年?(江戸時代前期) |
旧社格・等級等 | 旧村社・十四等級 |
祭神 | 天照皇大神(アマテラス) |
アクセス | あおなみ線「中島駅」から徒歩約28分 |
駐車場 | なし |
祭礼・その他 | 例祭 10月第1日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 皇太神社と神明社に決定的な違いはあるのか? |
皇太神社は、伊勢の神宮(公式サイト)系統の神社で、同名の神社が全国に何社かある。
伊勢の神宮の正式名称はただの”神宮”なのだけど、そのうちの内宮の正式名が皇大神宮(こうたいじんぐう)で、外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)だから、この神社は内宮から勧請したということになるだろう。
神明社と皇太神社の違いは何かと訊かれると私には答えられない。圧倒的に数が少ないことをみても、皇太神社は神明社と比べてやや特別な存在なのかもしれない。
名古屋市内に皇太神社はここ中川区西中島のもの一社しかない。
ここから900メートルほど東にある東中島の春日神社(地図)はかつて天照皇太神社と称していたようだから、両社セットでそう名乗っていたと考えられる。
このあたり一帯は平安時代末期に伊勢の神宮の荘園があったところなので、もともと神宮とはゆかりが深い。江戸時代もふたつの神明社は伊勢の神官に米を納めていたというから、関係は長く続いていたようだ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は江戸時代初期の寛永年間(1624-1643)伊勢より勧請し万治二年(1659)現在地に社地を移した。明治5年7月、村社に列格し、昭和55年本殿造営遷座祭を斎行する」
現在地は1631年から1634年にかけて開発された中嶋新田に当たる。創建年が1624-1643年というのが微妙なところで、新田開発の前に別の場所に建てられたのか、新田開発が終わった中島新田に建てられて中島新田内の今の場所に移したのか、そのあたりは判断できない。
『尾張徇行記』(1822年)は神明社二社は同時に1655年(承応4年)に勧請されたと書いている。
中島新田の開発を行った鬼頭景義(きとうかげよし)が関わっているようにも思うけど、棟札などは残っていないようだ。
中島新町にある八劔社は、棟札が残っていて、中島新田完成の1634年に鬼頭景義ら6名が勧請創建したことが分かっている。
東中島にある八劔社については棟札は残っていないものの、1628年に創建されて、1659年に東中島に移されたとしている。
元・天照皇大神社だった東中島(昭和橋通)の春日神社は、中島新田開発が始まった1631年に鬼頭景義が創建したという説と、1655年創建説がある。
これほど短期間に4社もの神社を狭い地区に建てるだろうかという疑問は沸くものの、これらの神社はひとまとめにして考える必要がありそうだ。
『尾張志』(1844年)の中島新田の項を見るとこうなっている。
「神明ノ社
神明ノ社 畑田といふ地にあり末社に春日ノ社八幡ノ社あり
八劔ノ社 二所 同所にあり」
畑田の神明社が東中島の春日神社のことで、もうひとつの神明社がこの西中島の皇太神社ということになるだろうか。
西中島の皇太神社の正式名は皇”太”神社で、入り口の社号標もそうなっている。
伊勢の内宮は皇大神宮で、点のない大だ。
皇太神社の拝殿に架かっている額は”皇大神社”で点がなく、境内奥に昔のものと思われる社号標があり、そこには”皇大神宮”と彫られている。
そもそも、もともと神明社だったものを皇大神社(皇太神社)としたのはいつだったのか。明治以降には違いないとして、明治なのか昭和なのか。
そのあたりの経緯については調べがつかなかった。
拝殿は東中島の春日神社のものとよく似ている。同じ設計者や会社が建てたのだろう。
神明造の平側に破風屋根がついた入り口を持つ建築様式で、他の神明社では見かけない独特のものだ。
千木は内宮と同じ内削ぎになっている。春日神社は外削ぎだった。
戦後に建て直された社殿はそのあたりは適当だったりするので、あまり深い意味はないかもしれない。
イメージの問題ではあるけど、神明社より皇太神社と名乗った方がちょっと高尚な感じがする。名づけた人もそこが狙いだっただろうか。
作成日 2017.10.24(最終更新日 2025.8.24)