西の打出(うちで)と東の中郷(ちゅうごう)に挟まれた打中(うちなか)にある神明社。 江戸時代、打出は打出村、中郷は中郷村だった。打中というのは打出の打と中郷の中を組み合わせてできた町名だ。 打出の由来について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「正字也 古へ海岸なりし時には此村海へ張出し地なり」と書いている。 江戸時代前期に干拓されるまではすぐ南が海岸線で、村は張りだした地名にあったことから名づけられたということだ。 この神明社は打出村の神社だった。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。 「神明壱社 社内三畝歩 前々除 中郷村祢宜 孫大夫持分」 『尾張徇行記』はもう少し詳しい。 「中郷村祠官高羽但馬守書上書ニ、神明社内三畝御除地、此社草創ハ知レス、再建慶長三戌年也」 慶長3年は1598年で、その年に再建された記録があるということは、創建はそれ以前にさかのぼるということだ。 打出村も、平安時代中期に成立した伊勢の神宮(web)の荘園、一楊御厨(ひとつやなぎのみくりや)の一部なので、神明社を勧請したのは自然なことだ。平安時代とまではいかないとしても、鎌倉時代あたりに建てられた可能性がある。 『尾張志』(1844年)にも「神明ノ社 打出村にあり」とある。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。明治5年7月、村社に列格した」と書く。
今昔マップで打出村の変遷を辿ると、このあたりが区画整理されて町並みが大きく変わったのは1960年代以降だったことが分かる。その後もしばらく田んぼは残り、1970年代以降は住宅地となった。 打出町は大正10年(1921年)に荒子村大字打出を名古屋市南区に編入して誕生した。 その後、昭和52年(1977年)に中須町の一部より打出2丁目が、昭和54年(1979年)に打出町、打出本町、中須町、野田町、八王子町の各一部より打出1丁目が成立した。
入り口の社号標の中央あたりに大きくヒビが入っていて、一度折れたものをくっつけた形跡がある。昭和二年四月建立と刻まれているから、そこそこ古いものだ。 このあたりは空襲で焼けたという話は聞かないのだけど、伊勢湾台風で折れたのかもしれない。 参道脇は建物が並んでいるものの、入り口から社殿まで距離がある。神社はこの奥行きが大事だと思う。 覆殿の形がちょっと変わっている。細い板張りで中がよく見えない造りで、昭和橋通の春日神社と似ている。 本殿は茅葺き屋根のようだ。
作成日 2017.10.28(最終更新日 2019.7.2)
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