現住所は土野町(つちのちょう)、かつてのここは野田村だった。 野田村にあった神明社、八王子社、三狐神社の中の神明社がここだ。 『尾張志』(1844年)にはこうある。 「神明ノ社 村の氏神也 末社に白山社八幡社あり 八王子ノ社 氏神より東南にあり サグジノ社 氏神より東にあり」 『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1844年)にもこの三社が載っている。 創建は不明で、再建は1667年(寛文7年)と『尾張徇行記』は書いている。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても三社の位置関係は少なくとも江戸時代後期から変わっていないようだ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「創建は古く弘長2年(1262)という。此の地は『神鳳抄』にいう伊勢神宮の野田(沼田の訛)御厨の跡地である。明治4年10月、村社に列格する」 『神鳳抄』(じんぽうしょう/web)は伊勢の神宮(web)の神領を記した一覧で、鎌倉時代初期の1193年から1360年にかけて作れたとされる。 それを見ると「内宮 野田御厨」とある。 その関係で神明社が創建されたというのは自然なことだ。 1262年となると、尾張地方の神明社ではかなり古い方だろう。 ちなみに、『愛知縣神社名鑑』は野田の地名由来を沼田から転じたとしているけど、必ずしもそうとは限らず、そういう説があるというだけだ。
神社は庄内病院の敷地内にあるような格好になっているのだけど、これはたぶん逆で、神社の境内に病院が建ったのだと思う。 境内は全体的に斜めになっており、社殿も南西を向いている。場所は移っていなくても、境内の一部を売ったときに社殿は建て直したかもしれない。 本社は覆殿に覆われていて、中がよく見えない。隙間から覗くと、本社の左右に小さな社があるのが見える。『尾張志』がいうところの「末社に白山社八幡社」がこれに当たるだろうか(『尾張徇行記』では春日社八幡社となっているのでどちらかが間違っているかもしれない)。 境内に馬の像があって拝殿に白馬を描いた絵が掛けられているのは三狐神社と共通する。野田村の神社に神馬がいたこともあったのだろうか。 「棒之手再興之師 梅村順助翁碑」の碑がある。 棒の手というと、尾張旭や瀬戸といった尾張北東部の印象が強いのだけど、南西部にも受け継がれていたようだ。
作成日 2017.10.31(最終更新日 2019.7.3)
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