名城公園の東、愛知学院大学名城公園キャンパスの裏手にある小さな神社。 愛知学院大学が名城公園キャンパスを開校したのは2014年で、その前は名城住宅があった。 現在、神社は名城保育園に囲まれるようにして建っている。名城保育園がこの場所にできたのは1970年代以降だと思うのだけど、それ以前にこの神社はどうなっていたのか。
歴史をさかのぼると、1610年に名古屋城が築城された後、この場所は御深井(おふけ)の庭と呼ばれる庭園が造営された。 名古屋城は名古屋台地(熱田台地)の北西の縁に建てられ、その北はかつて海だった場所ということもあり沼地だった。馬も入れないようなところだったという。 名古屋城が築城される以前、今川と織田がぶつかる前線基地で、那古野城があった。名古屋城の二の丸あたりだったと伝わる。 天王神社の300メートルほど北にある深島神社(柳原)は名古屋城筑前以前からあった神社のひとつだ。
この天王神社がいつ建てられたかということなのだけど、古ければ江戸時代だし、新しければ明治以降、ひょっとすると昭和という可能性も考えられる。 ただ、江戸時代からこの場所にあったかというとそれはなさそうだ。というのも、先ほど書いたようにここは御深井庭と呼ばれていた場所で、江戸時代の記録に天王は見当たらないからだ。古くからあった天王は亀尾天王などと呼ばれ、今は那古野神社となっている神社で、三の丸にあった。
江戸時代ここは名古屋村と呼ばれていた。今の名城公園を中心に、名城、金城、城西あたりが村域だった。東は杉村、北東に田幡村、北は西志賀村、北西に児玉村、西に押切村があった。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の「名古屋庄名護屋村本田」というのが江戸時代を通じての名古屋村のことを指しているのかどうかがよく分からないのだけど、その項にはこうある。 「社四ヶ所 内 浅間 天神 弁才天 山神 当村祢宜 丹後持分 社内弐反弐畝拾歩 前々除」 それぞれの神社がどこのことをいってるのかちょっと分からない。
初代藩主の義直は、瀬戸から陶工を呼び寄せて御深井丸の蓮池の東北に御深井窯を作って焼き物を焼かせていた。その焼き物は、御深井丸焼、御庭焼などと呼ばれていた。 明治になると御深井丸の庭は尾張徳川家から国が買い取り、陸軍の北練兵場になった。現在の天王神社があるのも練兵場の内側の敷地だった。つまりは、少なくとも明治時代にこの場所に神社はなかったということになる。 明治以降の変遷については今昔マップを見ると分かる。 大正時代、北練兵場では毎年5月10の陸軍記念日に招魂祭が行われたという。曲芸や草競馬が開催され、花火も打ち上げられたそうだ。 ひとつの可能性として、この招魂祭のために天王社は建てられたのではないかということだ。そうであれば、旧北練兵場の内側に神社が位置していることの説明がつく。 戦後、北練兵場は名古屋市に払い下げられ、名城住宅が建てられた。名城公園が整備されたのは昭和24年(1949年)のことだ。
天王神社の名前からして牛頭天王を祀る神社として建てられたであろうことは想像がつく。厄除け、疫病除けとされた神だ。 素直に考えれば神仏分離令で牛頭天王を祀ることが禁じられた明治以前ということになるのだけど、戦後に名城住宅が建てられたとき、団地の守り神として創建された可能性もある。 江戸時代に建てられた古い神社というのであれば、他から移されたということだ。 小さな社に似つかわしくないくらい木造鳥居は立派なので、かつてはもっと広い社地を有していたのかもしれない。 この神社についての情報がまったく得られないため、ここで調査と推測は行き詰まった。
私が訪れたのは2017年で、そのときは隣の建物と後ろの住宅で大がかりな工事が行われていて神社の様子がよく分からなかった。 その後工事は終わったのだけど、木造鳥居が取り払われてなくなってしまったらしい。そんなふうに神社はどんどん原型を失い、残されたわずかな手がかりも消えていく。 少し北にある城北住宅も取り壊しが決まり、城北神社はすでに廃社となった。天王神社はこの先も生き残れるだろうか。
作成日 2017.12.11(最終更新日 2019.1.10)
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