庄内川と矢田川に挟まれた狭い土地にある米が瀬地区。明治の中頃まで何度も川が氾濫して被害が出たそうだけど、地図を見てもそれはそうだろうと思う。危なっかしくて住むのが怖いくらいのところだ。 米が瀬(こめがせ)はかつて「よねがせ」と呼ばれており、成願寺村の支村だった。 よねがせとは夜泣くという意味で、大雨で川が増水すると轟々と夜通し音を立てて流れたため心配で夜も眠れなかったことから付けられたという説がある。それはたぶん俗説だろうけど、ここがそういう土地だったには違いない。 1143年の「尾張国安食荘立券文」に成願寺村の「米里」が見えることから、そこから転じたという説もある。 昭和46年(1971年)に北区成願寺町字米ヶ瀬の一部より成立した。
境内に由緒書きがあり、創建からその後の流れが分かる。 祭祀の始まりは大正12年(1923年)という。 その頃このあたりは大小の池がたくさんあり、その中のひとつは周囲500メートルの大池で、大蛇が棲むといわれていたそうだ。 中井なんとかという人がこの場所に遊園地を建てることを思いつき、施設を水害から守るために辨財天を祀ったのが始まりだった。 西国の霊験あらたかなる辨財天の分身として浄才辨財天と名付けたというから、奈良県の天河大辨財天社(web)に関係があるかもしれない。 最初は現在地から500メートルほど西の三百坪くらいの池の中央に祀られていたという。 今昔マップの明治から大正にかけての地図を見ると、米が瀬のあたりには田んぼと桑畑と空白地があるだけで、民家は描かれていない。 昭和5年(1930年)に始まった矢田川の付け替え工事(流路変更)に伴い、昭和7年(1932年)に現在地に移された。辨財天の池も今はもうない。 結局中井さんの遊園地は実現したのだろうか。そのあたりについて調べがつかなかった。 昭和20年(1945年)5月14日の名古屋空襲で成願寺、辻町、瀬古の一帯が焼失し、辨財天社も焼けてしまった。 しかし、祠の中にあった辨財天の神体は無事だったという。 この神像の辨財天がちょっと変わっていて、右手に剣を持ち、左手には玉蓮を持っているんだそうだ。 昭和43年(1968年)に再び土地を確保して祀る。 昭和51年(1976年)には米が瀬に下水処理場ができることになり、関係各社がお金を出して再建し、現在に至る。 由緒書きはこのとき書かれたものだ。
神社の歴史は土地の歴史であり町の歴史だ。神社はそういった歴史を語り継ぐ役割も担っている。書物にも歴史は残るけど、誰もが専門書や古文書を読むわけではない。神社ならいつでもそこにあって誰でも行ける。 そういう意味でも、神社の由緒書きはぜひ境内に置いてほしいと思う。立派な碑を作るまでもなく、紙に印刷したものを貼っておくだけでいい。訪れた参拝者がそれを読んで、へぇ、そうなんだと思うだけでも価値があると思うのだ。
作成日 2017.12.17(最終更新日 2019.1.18)
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