尾頭橋(おとうばし)の地名を冠する神社で、その実体はよく分からない。 しかし、この神社はパッケージングとしての素晴らしさがある。小さめの庭にこそっと上手くはまっていて、箱庭神社とでも呼びたくなるような作りになっている。 入り口にはほどよい大きさの社号標があり、木製の鳥居があって、手水からはちゃんと水が流れている。そして何より松を中心とした木の植え具合というか配置がいい。季節の花が咲く木もあるから季節感も楽しめるようになっている。 これは庭というものをよく分かっている人が作った神社だ。庭の中に神社が配置されているともいえるし、神社が庭化しているともいえる。 個人宅で神社を作ろうと考えている人は、ここは大いに参考になると思う。
金山駅周辺の歴史は古く、弥生時代の東古渡遺跡、伊勢山中学校遺跡が見つかっている他、金山北遺跡からは旧石器時代の石器も出土している。古墳時代以降の大きな集落跡があり、名古屋最古の寺院といわれる尾張元興寺(尾頭山願興寺)があったのもここだった(今ある元興寺は別)。 元興寺は白鳳時代(天武・持統朝)に奈良の元興寺の分院として道場法師(どうじょうほうし)が建てたとされる寺で、道場法師が生まれるときに霊蛇が首筋にまきついていて、その尾と頭が並んで後ろに倒れていたことから山号として尾頭山と名付けたと『日本霊異記』(810-824年)に書かれている。 平安時代末、鎮西八郎こと源為朝が伊豆大島に島流しになって死んだ後、為朝次男の次郎義次が熱田社を頼ってこの地にやってきて、天皇の勅命を受けて賊を退治し、その恩賞として古渡一帯を拝領し、故事にちなんで尾頭次郎義次を名乗ったとされる。 現在の尾頭橋の地名は、堀川に架かる尾頭橋から来ている。尾頭橋は堀川が掘られたとき最初に架けられた七つの橋のうちのひとつで、佐屋街道でもあった。堀川の最南端で当時は海に近かったため、何度も流され、そのたびに架け替えられている。 江戸時代の尾頭橋は西古渡と呼ばれていた。名古屋城下の外れで、南の熱田社との中間地点ということもあって、街道沿いに田畑が広がるばかりで何もないようなところだったという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ても、わずかに民家があるだけであとは田んぼが広がっていたことが分かる。 大正二年(1913年)に尾頭橋と下之一色との間に電車軌道が敷かれ、尾頭橋交差点は市バスの乗り換え起点となったことから人の往来や店が増えていった。 その後、尾頭橋駅の南に八幡園という遊廓ができて歓楽地として賑わうことになる。 昭和20年代後半まで栄えたものの、時代の流れで衰退していった。 尾頭橋というと、中日ドラゴンズの本拠地、ナゴヤ球場があった場所として認識している人が多いんじゃないかと思う。 尾頭橋の東に金山駅ができたのは昭和19年(1944年)で、街の中心はそちらに移り、1962年には金山総合駅となって鉄道各社が乗り入れるようになった。今の尾頭橋駅は、場外馬券売り場のウインズ名古屋がある駅というイメージになっている。
尾頭橋神社がある場所は江戸時代の古渡村ということでいいだろうか。西には百曲街道が通っていた。 古渡村の中心は堀川より東の熱田台地上だった。金山駅の北一帯がそうで、神社としては闇之森八幡社、榊森白山社、神明社(伊勢山)などが古渡村の神社だった。 尾頭橋神社が江戸時代やそれ以前からあったような古い神社かどうかは分からない。新しければ明治以降か、昭和に入ってからという可能性もある。 今昔マップで変遷を辿ると、このあたりに家が建つのは大正時代に入ってからだ。なので、早くてもそれ以降ではないかと思うけどどうだろう。
系統や祭神についてはよく分からない。 神明鳥居で社は神明造、千木は外削(男神)、鰹木は五本だけど、アマテラスを祀る神明社系かというとあまりそんな感じではない。熱田社系でもない気がする。 社の前に誰かが置いていった秋葉権現のお札があったけど、だからといってここが秋葉社とは限らない。 お庭神社風のたたずまいからして、実際に個人宅で祀っていた神社だったのかもしれない。 いずれにしても、ここはプライベート神社としてひとつの理想の姿を見たように思った。
作成日 2017.12.24(最終更新日 2019.7.12)
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