供米田の神明社の北60メートルほどのところにある小さな社。名前は分からない。その他、詳細は一切不明。 位置的にも距離的にも供米田の神明社と関係がありそうだけど、神明社の境内社と断定はできない。 鳥居はなく、人工的に作った高台の上に社が二社あって、格子の覆殿で囲っている。 社には大小があって、簡素な板宮造になっている。外観から分かることはほとんどない。 こうも手がかりがないとまったくのお手上げとなってしまう。
供米田(くまいでん)の地名の由来は、熱田社(web)に提供する米を作る田んぼがあったからという説と、夫役の代わりに米を供する土地だったからそう呼ばれたという説がある。 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)には「供米田新田」とあるから、江戸時代に入ってあらたに開墾されて田んぼが作られた土地だったのだろう。江戸時代後期の『尾張志』(1844年)では供米田村になっている。 供米田の町名は平成2年(1990年)に成立したもので、かつての富田町大字供米田と富田町大字春田の各一部からなっている。 少し北の供米田3丁目にある直来公園(地図)というのも気になった。 直来(なおらい)というのは、神社の祭礼のとき供えた酒(神酒)や食べ物(神饌)を、祭礼の後に参加者たちが飲食することをいう。神に供えたものを取り込むことで神と一体になるといった意味がある。 この直来公園の由来が神社の直来から来ているのかどうかは分からないのだけど、供米田の地名といい、田んぼや神社と関係があると考えていいのではないか。
供米田の神明社は慶長6年(1601年)に再建されたというから、創建は江戸時代以前ということになる。 神明社の北にある二社は神明社の飛地境内社ということになるだろうか。 あるいはまったく無関係で、秋葉社と津島社、もしくは熱田社あたりを祀ったものという可能性もあるか。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、社がある場所は供米田村の集落の中ということが分かる。明治時代でいうと、集落と田んぼの堺あたりだ。 戦後しばらくはこのあたりはあまり変わらず、集落東の田んぼが区画整理されたのは1960年代に入ってからだ。 この社がいつくらいからここにあったかを推測するのは難しい。
参拝をしている間ずっと近所の猫がこちらを見ていた。参拝者が物珍しかったのか、神社が猫のテリトリーになっているのか、いずれにしても訪れる人は少なそうだ。 供米田の神明社を参拝した際は、ついでに寄ってやってください。
作成日 2018.1.4(最終更新日 2019.7.16)
|