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龍神社・辨天社(蝮ヶ池)


蝮ヶ池の名残がここにある



蝮ヶ池竜神・辨天

読み方りゅうじん-しゃ/べんてん-しゃ(まむしがいけ)
所在地名古屋市千種区池下町2丁目 地図
創建年1921年(大正10年)
旧社格・等級等不明
祭神池主大神(いけぬしのおおかみ)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
アクセス地下鉄東山線「池下駅」から徒歩約4分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 地下鉄東山線「池下駅」の北東160メートルほど、蝮ヶ池八幡宮の南170メートルほどの三叉路の角にある小さな神社。
 池下駅1番出口を出て右方向に進み、池下北交差点を右に曲がって三本目の道(逆一方通行)を左に入った先にある。車なら古川美術館の手前を左折して、もう一度左折した先だ。
 蝮池(蝮ヶ池)の主を鎮めるために建てられた社で、蝮池が池下の地名の由来になっている。池の下(底)だから池下というわけだ。



 蝮池は水田用に掘られた人工の溜め池で、万治年間(1658年-1680年)に名古屋新田を開拓した人々によって築造された。村域としては古井村だった。
 古井村のこのあたりは名古屋城下から外れた荒野のような土地で、丘陵地帯で水が乏しかったため、水田には適さなかった。
 その土地に目を付けたのが、尾張藩士で大庄屋でもあった兼松源蔵だった。溜め池を多く作り、それまで畑しかできなかった土地を水田にしていった。
 蝮ヶ池八幡宮を創建したのも兼松源蔵で、当初は屋敷内(もしくは屋敷の近くの西八幡社)に、石清水八幡宮(web)から八幡神を勧請して祀ったのが始まりとされる。
 蝮池は、南北約200m、東西約100m、周囲約950mあったというから、かなりの大きさだ。
 今昔マップを見ると、大きさと場所を把握することができる。
 名前の由来は池の周囲に蝮(マムシ)が多かったからとされる(諸説あり)。



 大正10年(1921年)、このあたりにも人が増え、更に宅地が必要だということで蝮池が埋め立てられることになった。
 しかし、その工事中、関係者の事故が相次ぎ、責任者が倒れ、これはまずいということで池の主を祀ることにした。それが現在の龍神社だ。池の主はたいてい龍神と相場が決まっている。
 それだけでは足りないといけないということで、水にゆかりの深い辯才天も祀ることにした(今は市杵島姫になっている)。
 境内にある小さな池は蝮池の名残だ。
 蝮ヶ池大神の石碑と社がふたつ並び、竜神・辨天神と染められた紅白の幟が境内を囲んでいる。
 現在は蝮ヶ池八幡宮の飛地境内社という扱いになっている。



 地下鉄東山線は名古屋で最初に開業した地下鉄だ。戦前から計画はあったものの第二次大戦で先送りとなり、昭和32年(1957年)に名古屋-栄町間が開業した。
 栄町から池下まで延びたのが昭和35年(1960年)。
 その後、池下-東山公園、栄町-市役所、東山公園-星ヶ丘、星ヶ丘-藤が丘、名古屋-中村公園、上社駅新設、中村公園-高畑と延長し、昭和57年(1982年)に全線開通となった。
 私が覚えている古い東山線は黄色い車両で、クーラーが付いていなかったから夏場は地獄のようだった。地下鉄なので窓は開けられない。1980年代にようやくクーラー付きの車両が登場したものの、クーラーなしと混在していたから、クーラーなしを見送ってクーラーありが来るのを待ったという人もいただろう。
 かつての池下駅周辺は今ひとつパッとしない印象の街だった。隣の今池は飲食店が集まる活気のある街で、反対隣の覚王山は高級住宅地というイメージだった。
 しかし最近の池下はすっかり様変わりしておしゃれタウンに生まれ変わっていた。いつからあんなことになったのだろう。久しぶり訪れたら驚いた。
 セントラルガーデンレジデンスの高級マンションが建ち並び、ひとつの街のようになっている。敷地内には「成城石井(web)」や「賛否両論(web)」、「フォルテシモアッシュ(web)」、「メゾンカイザー(web)」などの路面店が並ぶ。



 古井村が荒涼とした荒れ地だった時代はそんなに大昔のことではない。江戸時代を通じて見渡す限りの田畑だったわけだから、ほんの150年ほど前までそうだったということだ。蝮池が大正10年まであったことを考えれば、激変したのはここ100年のことで、それも大部分は戦後のことだ。
 愛知厚生年金会館もいつの間にかなくなり、池下も変わり続けているけれど、龍神社はずっとこのままあって欲しいと思う。池下がどうして池下と呼ばれるようになったのかを語り継ぐためにも。




作成日 2018.1.8(最終更新日 2019.2.14)


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