創建されたのは室町時代前中期の1398年と伝わる。もともと富士塚町(東桜1丁目)にあったものを、名古屋城築城の際(1610年)、冨士神社(東桜)(地図)の境内が浅野幸長の普請場となったことでここに移された。当時ここは巾下(はばした)と呼ばれていた。 名古屋城(web)の本丸(地図)から700メートルほど西に神社は位置している。現在、22号線から少し北に入ったところにあるのだけど、かつては美濃路の南側だった。 すぐ横を江川が流れており、人の往来の多い美濃路沿いということで、参拝者も多かったんじゃないかと思う。 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、明治中頃までは江戸時代の面影が残っていたことが分かる。
歴史や経緯については元地に再建された冨士神社(東桜)のページに書いた。名古屋城築城の期間だけの仮遷座の約束が守られず、名古屋城が完成したあとも巾下に残されることになった。 元地に再建されたものを冨士権現などと呼び、巾下のものを浅間社と呼んで区別していたようだ。現在は冨士神社と冨士浅間神社という社名になっている。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝に筑前宗像神社の社家三谷家第十九代の孫三谷源太夫応永五年(1398)6月、駿河冨士浅間神社の神璽を請け、前山(東区富士塚町)の社地に創祀する。慶長十五年(1610)名古屋城築城の際社地附近が普請場となり、源敬公の命により今の境内地に遷座す享保九年(1724)5月13日、城下の大火により焼失、元治元年(1864)改築あり、明治8年1月15日、村社に列格し、明治40年10月26日、指定社となる。昭和17年4月1日、郷社に昇格する」 創建者は前山源太夫とされるのだけど、三谷源太夫が本名で、元冨士神社のあたりが前山という地名だったことから前山源太夫を名乗っていたということだろうか。宗像神社(福岡県宗像市の宗像大社 web)の社家が尾張にやって来てこの地に定着したらしいけど、それならどうして宗像神社ではなく富士権現社だったのだろう。 源敬公というのは尾張藩初代藩主の徳川義直のことだ。ここに移すように命じたのは義直だったようだ。 江戸時代、名古屋城下も何度か火事で焼けていて、享保九年(1724年)もそのなかのひとつだった。
『尾張志』(1844年)には境内社として瀧嶋社を移して祀っているとある。 もともと武島社と呼んでいた社で、上宿五平蔵町にあったものを享保八年(1723年)に浅間社に移したと書いている。 現在の冨士浅間神社に、これに当たる神社はないので失われたと思ったら、本殿の西に宗像社として金刀比羅社と一緒に祀られているのだという。 旧地の上宿五平蔵町は今の城西5丁目というから武嶋天神社(地図)があるあたりということになる。ひょっとすると瀧嶋社の跡地に武島天神社が建てられたということもあり得るのか。
『尾張名所図会』(1844年)には「境内に天満宮の社あり」とある。これは今ある天神社のことだろうか。扱いとしては小さい。 その他の境内社としては、稲荷社、宗像社、金刀比羅社、神明社、白山社、八幡社、津島社、秋葉社、疱瘡社がある。明治以降、周囲にあった小さな神社をここに集めたのだろう。
一時的に越してきただけということを巾下の村人たちは知っていたのかどうか分からないけど、ここの人たちが大事に守ってきたからこそ今もこうして存続しているわけで、結果的に二社に分裂した格好になりつつも互いにとってよかったといえるんじゃないだろうか。 こちらが抱え込んで戻さなかったというわけではなく、元地に屋敷が建ち並んで戻すに戻せなかったという事情もある。 名古屋城築城から400年以上が経過した。天守を木造で建て直すことが決まり、準備が進んでいる。本丸御殿(web)は2018年6月に完成して一般公開された。 それに先立ち、3月には名古屋城南に昔の町並みを再現した飲食店街の金シャチ横丁(web)もできた。 堀川クルーズの船便も定期化するという話もあり、東京オリンピックやリニア新幹線名古屋駅開業に向けて名古屋城周辺もそこそこ盛り上がりそうだ。 名古屋城にまつわる神社も周辺にけっこうあるからモデルコースを作って紹介したらどうだろう。名古屋市がやらないなら私がやってもいい。 まずは那古野神社と名古屋東照宮へ行って、本町通りを下って若宮八幡社へ。そこから戻って冨士神社、桜天神社と回り、堀川沿いを通って冨士浅間神社まで。小回りコースでもこれだけの神社がある。 信長コースや秀吉コースもできるし、このサイトでそういうモデルコース案内のページを作ってもいいかもしれない。
作成日 2018.1.10(最終更新日 2019.9.9)
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