丹八山公園(たんぱちやまこうえん)は地元ではちょっと知られた公園だ。桜名所であり、謎の石碑が建ち並ぶ小山というのが一般的な認識だと思う。 かつてここは鳥居山と呼ばれ、七所社(七所神社)が建っていた。 七所社は平将門の調伏祈願が行われた跡地に941年に創建されたとされ、100年後の平安時代後期の1040年頃に現在地(地図 )に移された。 時が流れて明治の時代、石川丹八郎(いしかわたんぱちろう)という人の所有地になっていた。 郷土史家で易者でもあった丹八郎は、鳥居山を丹八山と名付け(勝手に)様々な石碑を次々と建てていくことになる。 入り口の完平泰社と刻まれた石碑を始め、お銀坂、笠寺観音霊木漂着之地、七砲臺、織田信長遯来地、平将門首塚、浦島太郎誕生地、壬申の乱出兵、豊臣秀吉誕生地、 草薙の剣盗難、ハワイ国王など、50以上の石碑が乱立している。 とりあえず見なかったことにした。 この石碑群からもかなりの変わり者だったと思われるのだけど、地元有力者とのつながりがあったり、テレビに出たり、著作をしたり、易者としての評判がよかったりと、なかなかの活躍ぶりだったようだ。 丹八山に桜の木を植えたのも石川丹八郎で、生前に名古屋市に寄贈している。石碑を50も建てるにはずいぶんお金もかかっただろう。 丹八郎は作詞作曲もやり、笠寺節、笠寺おけさ、笠寺甚句、笠寺小唄、本星音頭なども作っている。 丹八最中(たんぱちもなか)も発売しているらしい。 明治のみうらじゅんのような人と思っておけば当たらずといえども遠からずかもしれない。
鳥居山と平将門、七所神社、みこし山の軻愚突知社のことについては、七所神社と軻愚突知社(本星﨑)のページに書いた。 どうして丹八山の上に迦具土社があるのかは分からない。 『愛知縣神社名鑑』は「創建については明かではない。明治6年据置公許となる」とごく簡単に書いている。 明治6年に据置公許となったということは、江戸時代にはすでに建っていたということだ。丹八郎は明治26年生まれ(昭和54年没)なので、丹八郎が建てたわけではない。七所社が移されてほどなくして建てられたのかもしれない。 狭間の谷を挟んで南北に並ぶみこし山の上にも軻愚突知社があるということは、この二社はセットと考えた方がいいだろうか。 地理的にも小山の格好からも、鳥居山もみこし山も元は古墳だった可能性がある。 熱田社がわざわざ熱田の七神を神輿に乗せてここまで運んで将門調伏祈願をしたということは、平安時代後期、ここは聖地と考えられていたのではないか。何の理由もなくここで祈願が行われたとは思えない。
『南区の神社を巡る』は、創建を940年と書いているのだけど、さすがにそれは無理がないだろうか。940年は平将門の乱を鎮める祈祷が行われた年で、七所社もまだ建っていないときだ。七所社に先行して迦具土を祀ったとは考えづらい。どこからそういう話が出てきたのか。 ただ、鳥居山(丹八山)は七所社の御旅所として使われていた場所なので、七所社が現在地に移された1040年以降の早い時期に何らかの社があった可能性は考えられる。
鳥居山が歴史の舞台になったことがもう一度ある。 戦国時代の天文16年(1547年)、笠寺観音(地図)で竹千代と織田信広との人質交換が行われたとき、岡﨑衆300名がこの鳥居山から様子をうかがっていたのだった。 今川の人質に差し出された竹千代(のちの徳川家康)は途中でさらわれて織田家の人質になっていた。竹千代人質強奪事件に関しては熱田社(伝馬)のページに書いた。 一方、織田信広(信長の兄)は安祥城の戦いで今川方に生け捕りにされ、今川義元の提案で人質交換が行われることになった。 笠寺観音での交換が無事に済むと、岡﨑衆は竹千代を連れて岡崎城へ帰っていったのだった。
10月の七所神社の大祭の時には、今でも丹八山の御旅所まで七柱の神を神輿に乗せて渡している。 歴史のある場所と奇妙な石碑群とのコントラストが面白いといえば面白い。春になると山の上では桜が咲き、近所の人々が集い、近くの園児たちが遠足にやってくる。 そんな光景を想像すると、なんだかんだいって日本はわりと平和だなと思うのだ。
作成日 2018.2.16(最終更新日 2019.8.17)
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