鳥居をくぐった瞬間に何か特別な空気を感じる神社がある。この喚續社もそうだった。 初めての神社を訪れる場合、あまり予備知識を持たずに出向くことにしている。最初の印象を自分自身確かめたいという思いがあるからだ。知識がかえって感覚を惑わすということもある。 『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に、呼続堤の築造に際し海水流れ込み難渋極むと、伊勢神宮へ祈願し大麻を迎えまつるに、大御神の影護により、工事を終えた。延享二年(1745)一社を建てて呼続神明社と称し尊崇した。明治5年7月、村社に列し明治40年10月26日、供進指定社となる」 創建は江戸時代中期の1745年? そんなはずはないと思った。ここはそんなに新しい神社ではない。 『南区の神社を巡る』などでは創建を戦国時代中期の1523年(大永3年)としている。 その根拠が示されていないので何とも言えないのだけど、感覚的にはもっと古い神社のような気がする。それはもしかしたら神社の歴史というよりもこの土地の歴史なのかもしれない。 遺跡としては知られていないものの、境内からは多くのハイガイ(食用の貝)や土師土器(はじしきどき)のかけらなどが見つかっていることからして、このあたりは早くから人が暮らしていた場所だったと考えられる。 神社がある喚續(呼続)は笠寺台地の下で、古くは年魚市潟と呼ばれる干潟だった。東を流れる天白川が運んだ土砂によってできた砂洲が発達した土地で、室町時代あたりから徐々に陸地化したとされる。それでも干満の差が大きく、水害は多かったようだ。 神社が本当に1523年に建てられたのだとしたら、その頃にはすっかり陸地になっていたということだろう。 ただ、『愛知縣神社名鑑』が書いているように、江戸時代中期ですら堤防を築こうとして海水の流れ込みで何度も決壊していたようだから、喚續社も無事では済まなかったのではないかと思う。 伊勢の神宮(web)で1万回の祈祷を行い、ようやく堤防が完成したので社を建てて喚續神明社としたという。社殿は伊勢の方向である西南を向いている。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の南野村の項はこうなっている。 「社弐ヶ所 内ニ 神明 天王 当村祢宜 宮内持分 社内弐反歩 前々除」 この神明が喚續社のはずで、前々除となっていることから1608年の備前検地以前からあったということになるので、『愛知縣神社名鑑』のいう1745年に社を建てた云々というのは間違いということになる。 最初に喚續社が建てられたのが1523年で、伊勢の神宮に祈って堤防が完成した1745年にアマテラスを祀る神明社を建て増して、その後喚續神明社と呼ばれるようになったということかもしれない。それなら話の流れとしては自然だ。 江戸時代後期の1844年に完成した『尾張志』にはこうある。 「喚續神明社 國常立尊 天照大御神 瓊々杵尊三坐を祭るといへり 摂社に塩竈ノ社 天王社 住吉社 軻遇突智社 大國玉社あり 社人を村瀬兵部と云」 この頃すでに天照御大神(アマテラス)の他に國常立尊(クニノトコタチ)と瓊々杵尊(ニニギ)も祀っていたということだ。この二柱はいつどこから来たものなのか。元々の喚續社の祭神がクニノトコタチもしくはニニギだったのか。それともクニノトコタチとニニギは後付けなのか。 『張州府志』(1752年)は山田重忠(~1221年)の創建としているけど、それはちょっと信じがたい。
かつて喚續社に隕石が御神体として祀られていたことがある。 江戸時代前期の寛永9年(1632年)8月14日(新暦の9月27日)の深夜0時過ぎ、村瀬六兵衛たち数名が塩田で塩作りをしているところに突然隕石が落ちたという。 驚いた人たちが地面の隕石を囲んでいる様子が『小治田之真清水』(『尾張名所図会』1844年の付録)に描かれている。 拾った隕石を星石と呼んで星宮社で祀ったとも、塩田の庄屋だった村瀬家で保管していたともいう。 星宮社は舒明天皇(じょめいてんのう)時代の637年に隕石が降ってきて、それを機に創建されたという話がある。その他、8世紀と13世紀にもこの地に隕石が落ちたという言い伝えがある。ここは笠寺台地の南端で、海に突き出した岬になっていたから、彗星などもよく見えたのではないかと思う。 星﨑の地名は平安時代の記録に見られることからかなり古くからあったと考えられる。星前ともいったようだ。 星宮社の祭神は天之香々背男命(アメノカガセオ)とクニノトコタチ(國常立命)となっている。 アメノカガセオは隕石、または彗星を神格化したものかもしれないと考えたりもする。 映画『君の名は。』の主人公の瀧は、さんずいの龍、もう一方の主人公である三葉(みつは)はミツハノメ(罔象女神)から来ており、三葉が巫女をしている実家の宮水神社では倭文神(シトリガミ)と建葉槌命(タケハヅチ)を祀っている。この二柱は「まつろわぬ神」であるアメノカガセオを鎮めたとされる神だ。瀧と三葉が出会うことができるのは現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)とが一瞬交わる黄昏時(誰そ彼どき)。瀧と三葉の力があわさったとき、落下する彗星から人々を救うことができた。その彗星の正体こそがアメノカガセオではないのか。 興味のある方は映画を深読みしつつサイドストーリーが描かれた小説もあわせて読むとより楽しめると思う。
星石と呼ばれた隕石は1829年に喚續神明社に寄進され、御神体となっていた。庄屋が村瀬家で、『尾張志』に「社人を村瀬兵部」とあるから、江戸時代後期の喚續神明社は村瀬家が持っていたのかもしれない。 昭和51年(1976年)に国立科学博物館に鑑定を依頼して詳しい調査が行われ、その当時は年代が確認できる日本最古の隕石とされた(後にもっと古いものが見つかって日本で二番目になった)。 南野村で見つかったということで南野隕石と名付けられた。 大きさは138×83×74mmで、重さは1.04kg。 火星と木星の間にあった小惑星が破壊されたときの破片で、マントル部分のものということが調査で分かった。写真を見るとやはり地球上のものとは思えない断面で、複雑できれいな色をしている。 その後、国立科学博物館(web)の所蔵となっているという情報があるのだけど、国立科学博物館のデータベースを検索すると出てこないので、鑑定を国立科学博物館に依頼しただけで今でも喚続神社が所蔵しているのかもしれない。
毎年10月に行われる例祭は猩々祭(しょうじょうまつり)と呼ばれている。 布袋(ほてい)や福禄寿(ふくろくじゅ)、大黒天などの七福神に加えて猩猩(しょうじょう)と呼ばれる人形が練り歩く。 酒好きで赤ら顔をした大男で、架空の生きものとされる。古典の書物や芸能などでも描かれ、似たような伝承が日本各地にある中、名古屋では鳴海を中心に伝わっている。 海から現れた赤い顔をした鬼ということで、サルタヒコとも符合する。モデルは舟に乗って外国から来た異人かもしれないし、宇宙船に乗ってやって来た異星人かもしれない。
松尾芭蕉は鳴海を訪れた際にこんな句を詠んでいる。
星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥
月のない夜に満天の星が輝き、闇の中で千鳥が啼く風景が目に浮かぶ。 44歳の芭蕉は12月の星﨑の闇に何を見ただろうか。
作成日 2018.2.19(最終更新日 2019.8.18)
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