喚續社のすぐ南、細い道を一本挟んだところにこの神社はある。 もともと喚續社の境内南に江戸時代中期の1787年(天明七年)に創建され、1821年(文政四年)に現在地に移されたという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、喚續社と琴飛羅社の位置関係が分かる。 この頃は合併して星﨑村となっていたのだけど、旧南野村の南端あたりに位置していた。 『愛知縣神社名鑑』は、明治6年に据置公許となったと書いている。 『尾張徇行記』(1822年)や『尾張志』(1844年)に、この神社に相当するようなものは書かれていない。南野村の神社としては喚續神明社と天王社、稲荷社、市杵島社あたりが出てくる。
分からないのは、何故、祭神が金山彦なのかということだ。 最初から琴飛羅社として建てられたのであれば、そのときの祭神は金毘羅権現(こんぴらごんげん)だった可能性が高い。江戸時代中期といえば神仏習合時代だ。 香川県にある総本社の金刀比羅宮(ことひらぐう/web)創建については諸説あるものの、神仏習合の色濃い神社だった。 大物主が象頭山に営んだ行宮の跡に琴平社を建てたのが始まりという説がある他、象頭山にあった松尾寺の鎮守が金毘羅だったというもの、役小角が開いたというものなどがある。 もとはインドの神クンピーラが仏教に取り込まれ、日本に伝わった。ガンジス川のワニを神格化したものとされ、仏教では十二神将のひとつになった。 水との関わりが深いということもあって、海上交通の守り神という性格が強い。 現在の金刀比羅宮は祭神を大物主命としている。これは明治の神仏分離令以降のことだ。 星﨑の琴飛羅社が何故、大物主ではなく金山彦を祭神としているのかが分からない。金山彦といえば、一般的には鉱山の神だ。 イザナミが火の神カグツチを産んで陰部に火傷をして苦しんでいるとき、吐瀉物(たぐり)から生まれたのが金山彦で、吐瀉物のイメージから製鉄や鍛冶、金属加工の神ともされる。 総本社は岐阜県垂井の南宮大社(web)だ。 もし最初から金山彦を祀っていたとしたら、社名は普通に金山社となっていたはずだ。少なくとも琴飛羅社とはしない。 『南区の神社を巡る』では、祭神を大物主神・金山毘売神・金山毘古神としている。 『日本書紀』(一書の第三)では金山彦のみで、『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神が生まれたとする。 もしかすると『愛知縣神社名鑑』で大物主が抜け落ちてしまっただけかもしれない。 昔、拝殿前のお堂で行者が修業をしていたことから近所の人たちは行者堂と呼んでいたそうだ。
星﨑の南は、かつて前浜塩と呼ばれる塩作りの中心地だった。 最盛期は江戸時代初期までで、江戸時代に入ると新田開発のために沿岸部の干拓が進み、塩田はどんどん縮小され、見切りを付けて水田作りに切り替える人が増えていった。江戸時代中期には星﨑のあたりも田畑になっていたようだ。 喚續社の創建は1523年で、1745年に呼続堤が完成したのを機に伊勢の神宮(web)への感謝の意味で神明社を建てたという。それが実質的な喚續社の創建なのか、喚續社と神明社は別で後に合体したのか、そのあたりがちょっとよく分からない。 琴飛羅社の創建は1787年というから、42年後ということになる。この頃にはもう星﨑のこのたりも塩田はなくなっていたのではないだろうか。 だとすれば、海上交通安全の金毘羅権現を祀ったというのもしっくりこないし、鉱山や金属加工の金山彦を祀ったというのはもっと違和感がある。
境内の一角に延命地蔵を祀る地蔵堂がある。 拝殿は屋根瓦の四阿(あずまや)のような格好をしており、赤っぽい銅板葺き屋根の本社の前には小さな注連縄飾りとだいだいが置かれていた。お正月飾りの名残だろうか。 祭神がどうこうではなく、信仰の場といった大げさなものでもなく、近所の人たちが立ち寄り、集まる場としての機能を果たしているのではないだろうか。 喚續社には喚續社の役割があり、琴飛羅社には琴飛羅社の役割がある。それできっと充分なのだ。
作成日 2018.2.20(最終更新日 2019.8.18)
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