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稲荷社(鹿島)


久太夫神社も今は稲荷社



鹿島稲荷社

読み方いなり-しゃ(かのしま)
所在地名古屋市南区星﨑2丁目96 地図
創建年不明
旧社格・等級等無格社・十五等級
祭神倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
アクセス名鉄名古屋本線「本星﨑駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他例祭 10月7日(10月第2日曜日?)
オススメ度

 創建年は不明ながら、おそらく江戸時代中期あたりではないかと思う。
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。
「社伝に当村の蟹江久太夫が勧請創祀する。文久三癸亥年(1863)10月29日、蟹江九太管理するも明治五年七月布告により、据置を許可せらる。鹿の島稲荷社ともいわれるのは喚続堤の未だなき頃は星﨑浦、鳴海潟一帯となりその中の鹿の島一島ありこの島に社ありし故なりという」
『愛知縣神社名鑑』は無駄に分かりづらい文章が多く、事情をよく知らない人が一読しただけでは理解できないことがけっこうある。私もこの文章だけではどういうことなのかよく分からなかった。
『南区の神社を巡る』を読んで、経緯がやっと分かった。それによるとこうだ。  
 南野村に住んでいた蟹江久太夫が創建した神社で、代々蟹江家が守り、子孫の蟹江久太が管理しているときに南野村に所有が移った。しかし、1863年(文久3年)にやっぱり戻して欲しいと願い出て、寺社奉行の許可を得て久太夫神社に戻したという。
 それが明治5年に据置公許となり、現在に至るということのようだ。今は喚續社の宮司さんが兼務しているのではないかと思う。氏子は喚續社市杵島社(星﨑)琴飛羅社(星﨑)と共通とのことだ。



 鹿島稲荷(かのしまいなり)と呼ばれるのは、喚続堤ができるまではこのあたりは年魚市潟(鳴海潟)の海で、その中に島があり、鹿の島と呼んでいたからだ。その島にこの社があったので、今でも鹿島稲荷と呼んでいるということだ。
 久太稲荷(きゅうだいなり)ともいう。



 1670年頃完成の『寛文村々覚書』には載っておらず、1844年完成の『尾張志』にある「稲荷ノ社 地先繰出新田にあり」というのがこの稲荷社だろう。
『張州府志』(1752年)や『尾張徇行記』(1822年)にはこの神社に相当するようなものは載っていない。



 蟹江久太夫が最初に祀ったのがウカノミタマだったかどうかは分からない。
『日本書紀』では倉稲魂命、『古事記』では宇迦之御魂神と表記されるこの神は、伏見稲荷大社(web)の主祭神ということで、全国の稲荷社で祀られている。
 ウカは穀物(食物)の意味で、食物神とされ、一般的には女神として捉えられることが多い。
 伊勢の神宮(web)外宮の豊受大神と同一視されることもある。
 ただ、稲荷神はなかなか複雑なので、そう簡単には分からない。
『南区の神社を巡る』では、倉稲魂命の他に猿田彦神と大宮咩神を祀るとしている。
 大宮咩神(おおみやのひめ)は『古語拾遺』の中で忌部氏の祖とされる太玉命の子として出てくる。
『古語拾遺』は平安時代初期の807年に忌部氏の
斎部広成(いんべ の ひろなり)が編さんしたとされる。天地開びゃくから天平年間(729-749年)までのことが書かれており、どういう目的で書かれたものかは諸説あってはっきりしない。評価も分かれている。
 大宮咩に関してもよく分からない。伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神に加えて佐田彦大神と大宮能売大神を祀っている。
 佐田彦大神を猿田彦とし、大宮能売大神を猿田彦の妻の天宇受売命(アメノウズメ)とする説がある。
 伏見稲荷大社では、摂社の田中大神(たなかのおおかみ)と四大神 (しのおおかみ)をあわせて五柱の神の神を祀る。



 本社の屋根はビニールシートがかかっているものの檜皮葺と思われる。わりと古いものじゃないだろうか。
 境内社として、八幡神、伊勢大神、秋葉神を祀る。
 その他に文字神社という社があり、気になった。初めて見る神社名だ。文字に関する神を祀っているのか、別の意味なのか。



 神社というのは多くの人が関わり、いくつもの時代を経て今に至っているから、その間に様々な変化があって、多くの歴史が積み重なっている。斑模様になっていることもあれば、完全に上書きされてしまっていることもある。
 どちらにしても下地を知ることは難しい。多くの人の手で塗り重ねられた今の姿がその神社の姿なのだといえばその通りだろう。
 最初は久太夫さんの個人神社だったにしても今はもう違う。神社もまた、育っていくものなのだ。




作成日 2018.2.20(最終更新日 2019.8.18)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

南区星﨑にある鹿島稲荷神社

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