なんだろう、この重たさはと思う。久々に鳥居から先に足が進まなかった。 境内の空気がやけに重苦しく感じられる。この重苦しさの要因は何なのか。嫌な感じではないのだけど、とにかく重いなという印象が最後まで残る神社だった。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に白山ノ社平田村にあり、と記す。産土神として崇敬あつく、明治5年、村社に列格した」
『尾張志』、『寛文村々覚書』などによると、平田村には江戸時代を通じて主な神社が6社あったことが分かる。 八幡社、神明社、白山社、天神社、十所社(十所大明神)、三狐神社(社宮神)の6社だ。 八幡社(平中町)は平中町に、十所社は城町に現存し、三狐神社(社宮神)は恵比子神社(平中町)のことではないかと思うけど確信はない。白山社がここ平出町のもので、天神社と神明社は現存していない。 白山社の境内社になっている神明社がそれだろうか。天神社は廃社になったか、別の神社となったか。境内社の津島社はどこの天王社だったのか。 平出町の旧住所は山田町大字平田字神明だから、その頃は神明社が独立してあったのではないだろうか。 今昔マップで明治以降の変遷を辿ってみても、そのあたりのことは見えてこない。 白山社の境内には御嶽社の一角もある。江戸時代からあったのか、明治以降なのか、なんともいえない。 『尾張徇行記』に、「密巌寺書上ニ、白山社内二畝十歩 神明社内一畝歩共ニ御除地、此二社ハ当村氏神ナリ」とある。 白山社と神明社は村の氏神という対等の立場だったのに、神明社は白山社に移され、住所からも名前が消えて納得いっていないのではないか、なんてことを考えてみた。まったく見当外れかもしれないけど、そうでも考えないとあの空気の重さは説明がつかないようにも思う。
平出町(ひらでちょう)は昭和47年に山田町大字平田の一部より成立した。 町名は平田集落の出町という意味で名づけられたという。 信長が父・信秀のために建てたとされる密巌寺や、清洲越しのときに光明寺の一部を移転した浄蓮寺、浄土宗の利見院など、あたり一帯は寺が多い。 村に岩倉街道が通っていたことも関係がありそうだ。
『寛文村々覚書』に前々除とあるから、創建は戦国もしくはそれ以前までさかのぼると思われる。 ただ、誰がいつここに白山社を建てたのかは分からない。平田城の東300メートルに位置していることからすると、平田城との関係も考えられる。
重たい空気を感じながらも、御嶽社の社に猫が寝ていて心和んだ。猫がすみついている神社はいい神社に違いないと思い込んでいる。私が感じた重さは単なる思い過ごしだっただろうか。
作成日 2018.3.19(最終更新日 2018.12.19)
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