目の前を通りながら神社と気づかず通り過ぎてしまったくらい表から見て神社感はない。鳥居はなく、二本の石柱が左右に建っており、その足元の低い位置に狛犬がいる。よく見ると入り口は石橋のようになっている。 どうやらここらしいということで中に入っていくと、社は見当たらない。脇に「茶房 あけび」の古びた看板があり、closedとなっている。奥に店があるようだけど閉まっているらしい。 神社はないなぁと思いつつ、ふと正面の建物を見ると、上の方に額がかかっており、「金毘羅大権現」と書かれており、のけぞった。ここか! と思う。
プレハブ小屋のような建物のサッシの扉をおそるおそる開けてみると、狭い部屋の中に社というか祭壇みたいなものがどんと置かれている。 部屋の広さは三畳くらいだろうか。その大部分を祭壇が占め、周囲にはいくつかの棚があり、神具やら壺やら箱やらが雑然と置かれ、金毘羅ワールドとでもいうべき異空間となっている。 これは渋いなと感じ入った。 祭壇の前には座布団が置かれ、いつでも祈祷できる準備ができている。横になるほどのスペースは空いていない。祈祷部屋、そんな表現がぴったりの空間だ。 けど、賽銭箱も置かれているし、そもそも扉も開いているくらいだから、一般の参拝客お断りのプライベート神社でもなさそうだ。 隠れ家的神社、そんな表現も思い浮かんだ。
入り口近くに置かれた手水の鉢に「文化九年 壬申二月」と刻まれている。 文化九年は1812年で、江戸時代後期だ。これがこの神社の創建年ということになるだろうか。もしくは、寄進された年で創建はもっと前という可能性もある。 建物前のもうひとつの手水の鉢にはこう刻まれている。 「□□施主大野木村 小川五兵衛 神主 小出但馬藤原連壽 嘉永六丑年八月吉日」 嘉永六年は1853年だ。 どうしてこちらに施主の名前と神主の名前が彫られているのか。 大野木村というと、現在の金毘羅がある平田村の南東で、大乃伎神社(地図)があるあたりの村だ。その大野木村の人間が施主だったというのはどういう事情があったのだろう。もしかすると、もともとは大野木村に建てられたものを後になって現在地に移したということだろうか。 もしくは、この手水の鉢は大野木村にあった別の神社のもので、鉢だけここに移したということも考えられる。 更に混乱させるのは、境内に金毘羅大権現と彫られた社号標らしき石柱があり、そこには「□より六丁 天下太平五穀□□國家安全 嘉永三戌六月」と彫られており、もうひとつの小さい石碑には「嘉永六丑年八月吉日」とあることだ。 嘉永3年は1850年で、嘉永6年は手水の鉢と同じ年だ。これかは寄進者が寄進した年だと思うのだけど、どこかの年で遷座したり再建したりしたことがあったかもしれない。 1853年は黒船がやって来た年だ。少し遡って1844年にオランダ国王が幕府に開国を迫り、1846年にはアメリカの軍艦が浦賀水道に来て通商の申し入れをしてきた。 1840年に清とイギリスの間で起きたアヘン戦争で清が負けたことは対岸の火事では済まなかったし、1854年は安政の東海地震があった。この後、1858年には安政の大獄が始まる。 そういった世情が不安な中、江戸時代の人々は金毘羅さんに何を願ったのだろう。
この金毘羅大権現は江戸時代にはすでにあったようだけど、それ以上のことは分からずじまいだった。江戸期の書にもそれらしい社は載っていない。 ここを管理している人に訊ねれば、もう少し詳しいことを教えてもらえるだろう。茶房あけびがまだ閉店していなければ、そこで訊ねれば手がかりが得られるかもしれない。 個人的にけっこう気に入ったし気になるので、調査はここで完結とせず、いったん保留ということにしておきたい。
作成日 2018.3.25(最終更新日 2018.12.13)
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