地図上にある上小田井の諏訪社を訪ねるも、あるべき場所にそれがない(地図)。小さな社というわけではなく、中規模の神社なので、見落とすことはないと思うのだけど、周辺のどこを探しても見つからない。廃社になったかとあきらめて、近くの星神社を再訪してびっくり。星神社の隣に遷座していたのだった。更に星神社もリノベーションしたのかというくらい劇的なリニューアルをしていて衝撃を受けた。 星神社のあまりの変貌ぶりに驚いて諏訪社の遷座が小さなことに思えたのだけど、それにしてもまさか星神社の隣に移されているとは思ってもみなかったので驚いたのは確かだ。 ただ、もともと離れてはいたものの、星神社の境外摂社という扱いだったようだし、本社に合祀という形ではなく独立した格好で残されたのは救いだ。 遷座したのは平成29年とあったから去年のことだ。星神社のリニューアルと同時期だったのだろう。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に諏訪ノ社、上小田井村にあり、と明治6年、据置公許となる」 『尾張志』を見ると、「諏訪社 天王社 この二社も同村(上小田井村)にあり」とある。 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)には、「社弐ヶ所 内 星之宮 諏訪 社内弐反壱畝弐拾六歩 前々除」とあり、天王社は出ていない。天王社は江戸時代中期以降に建てられたものだろうか。 『尾張徇行記』はもう少し詳しい。 「諏訪一祠在社外」 「仕官小島主水書上ニ、星宮境内五反四畝四歩内九畝廿六歩年貢地、四反四畝八歩前々除 村内控諏訪明神社内一反三畝廿八歩前々除 坂井戸控天王社内一畝内十五歩年貢地、十五歩堤腹ニアリ」 星神社(星宮)がの一部が年貢地になっていたというのは気になるところなのだけど、諏訪社は除地(前々除)になっているので、江戸時代以前に建てられた可能性が高い。
境内の説明書きには、小田井城主の織田信張が小田井城の鬼門に勧請した諏訪祠が始まりという話が『張州雑志』に出てくると書かれている。 『張州雑志』は尾張藩9代藩主の宗睦の命を受けた尾張藩士の内藤正参が安永年間(1772-1780年)から調査を始め、正参が1788年に没したのを受けて、協力していた赤林信定がまとめ、1789年に完成した尾張の地誌だ。 尾張地誌としてはマイナーな存在で私も目を通していないのだけど、全12巻で1巻800ページ以上もある大作だ。いずれ読んでもないといけない。 内藤正参は東甫という名で知られる狩野派の絵師でもあったので、挿絵も豊富らしい。 信張(寛廉)は清洲三奉行のひとつ織田藤左衛門家の武将で、2代目小田井城主の寛故(とおもと)の次男に当たる。兄は寛維(とおふさ)で、寛維は五所社(中小田井)との関わりで名前が出てくる。寛維が1542年の大垣城攻めで命を落としたので、その後、小田井城主となった。寛維が3代、父親の寛故がもう一度城主になっているので、寛廉は5代目ということになる。 小田井城に関しては中小田井五所社のページに書いた。 信長に仕えて名前を寛廉から信張に変えたとされ、近江の浅井攻めや比叡山焼き討ちに従軍した後、紀伊方面の担当になり、後に岸和田城に移った。本能寺の変の後、小田井城に戻って信長の息子の信雄に仕えた。 信張が諏訪社を建てたというのであれば、本能寺の変の後のことかもしれない。
この諏訪社にはちょっと面白い昔話が伝わっている。 境内に雷が落ちたとき、諏訪の神は怒って金網で雷を捕まえて、二度と落ちないことを誓わせて天に帰したというものだ。 一体何のことかと思うかもしれないけど、この雷は建御雷神(タケミカヅチ)のことと考えると、この話の面白さが分かる。 天上(高天原)にいるアマテラス(天照大神)は、地上(葦原中国)を支配するオオクニヌシ(大国主)に国譲りを迫り、タケミカヅチとフツヌシ(経津主)を地上に派遣した。 タケミカヅチがオオクニヌシに問うと、オオクニヌシは息子たちに訊いてくれと言って自分の意見を言わない。 そこで長男のコトシロヌシ(事代主)に訊いたところ、あっさり受け入れた。 次に次男のタケミナカタ(建御名方)に訊ねると、断固拒否。そこれでタケミカヅチとタケミナカタは争いになり、タケミカヅチの圧勝で勝負はつき、負けたタケミナカタは諏訪の地まで逃げていってそこから二度と出ないと約束させられることになった。 これが諏訪大社(web)の縁起であり、二神の戦いは相撲の起源ともされている。タケミナカタは、神無月に全国の神々が出雲に集まるときに唯一会議に出席しなくてもいい神とされている。それはこのとき、諏訪の地を出ないと約束したからだという。 この日本神話を踏まえると、上小田井の諏訪の神は、雷=建御雷神を捕まえて追い出したという話と読み取れる。それが昔話として伝わったということは何を暗示しているのか。 タケミカヅチ(建御雷神)は鹿島神宮(web)の主祭神で、春日大社(web)の神でもある。フツヌシを祀る香取神宮(web)とは対と関係とされる。 名古屋では鹿島神社というのはまったくなく、タケミカヅチを主祭神として祀っている神社は私の知る限りない。春日神社はあるけどそれでも数社だ。 深読みすると、かつてこの地でもタケミナカタの一派とタケミカヅチの一派が争ったことがあって、ここではタケミナカタが勝ってタケミカヅチ派を追い払ったということがあったのかもしれない。
諏訪の神というのは、どこかまつろわぬ神というイメージが強くて、中央とは一線を引いている感じがある。 諏訪地方の神については非常に複雑で難しいところがあって、諏訪大社のタケミナカタは後からやって来た神だともいわれる。 ミシャクジ信仰などの民間信仰も色濃く残っている。 武田信玄も諏訪大社を大事にしたように、戦国時代は戦の神として諏訪明神を信仰した武将も多かったようだ。 戦が続く尾張の地で織田信張が諏訪神を祀ったというのは充分あり得る話だと思う。
尾張国では鹿島の神は馴染みが薄いのだけど、タケミカヅチ誕生にまつわる天之尾羽張(アメノオハバリ)が尾張国の名前の由来ではないかとする説がある。 イザナミが火の神カグツチを産んだとき陰部に火傷を負って死んでしまったことに怒ったイザナギは、十束剣の天之尾羽張でカグツチの首を切り落とし、そのとき飛び散った血が岩について生まれた三神の一柱がタケミカヅチという。 剣のまたの名を伊都尾羽張(イツノオハバリ)ともいう。 尾張の地名の由来は、知多半島の形が尾が張ったようだからという説や、開墾した土地という意味の小墾(おはり)から来ているという説などがあるものの、定説というものはいまだない。 天之尾羽張と尾張を直接結びつけるのは乱暴なこじつけかもしれないけど、尾張の象徴ともいえる熱田神宮(web)の由来は草薙剣であることからしても、尾張と剣の因縁は浅からぬものがある。
上小田井の諏訪社が、ちゃんとした境内を持つ神社だった時代に一度は訊ねて写真を撮っておきたかった。今となってはもうその機会はない。だからこそ、今ある神社の今の姿を撮っておかなければならないという思いを更に強くした。今までずっとあった神社が明日も同じ姿であり続けるとは限らない。
作成日 2018.3.27(最終更新日 2018.12.18)
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