ライフ&シニアハウス神宮南井田という施設の敷地内にある神社。 企業社のたぐいかと思いきや必ずしもそうではないようで、『南区の神社を巡る』によれば、戦前は熱田の市場の方にあったもので、火災があって戦後にここに移されたとのことだ。 市場の方というのは、日比野の名古屋市中央卸市場のことだろう。名古屋市中央卸市場は、それまで大瀬子にあった魚市場に代わって昭和24年にできた。この名古屋市中央卸市場ができるときに移されたのかとも思うのだけど、火災があって移ったということは市場とは直接関係がないのか。 ライフ&シニアハウスはそれほど古いものではないだろうから、神社の移転が先で、あとから施設ができたのではないかと思う。 鳥居や社が新しくてお世話も行き届いているから、施設が管理しているのかもしれない。所有者についてはよく分からない。
狛犬の台座に刻まれている「昭和二年六月 明治新田は組」というのはひとつヒントになる。 現在の明治1丁目、2丁目は、明治時代に新田が開発されて明治新田と呼ばれた場所だ。江戸時代は紀左衛門新田の一部だった。 明治新田は小見山峰法が熱田神戸の浜や堀川沿いの土を掘り上げて作った土地で、明治11年(1878年)に完成した。 紀左衛門新田は1754年(宝暦4)年に加藤紀左衛門が干拓によって陸地としたもので、紀左衛門神社(地図)があるあたりが集落の中心だった。 「明治新田は組」というのは、いろは順で組み分けしたものだろうけど、地区のことなのか他の何かなのかよく分からない。 その「は組」が狛犬を寄進したということだ。それが昭和2年というのであれば、その時点ですでに神社は明治新田にあったのではないか。熱田にある神社に明治新田の人たちが狛犬を寄進するというのは考えにくい。『南区の神社を巡る』は地主さんの話として紹介しているものなので、必ずしも情報として正しいわけではなさそうだ。別の神社にあった狛犬をここに移したという可能性もあるか。
神社の西の道路を挟んで堀川が流れている。かつて堀川の堤防を熱田電気軌道が走っていた。 岐阜県出身の実業家、山田才吉は守口大根など漬物で財を成し、それを元手に堀川沿いの土地を買い込んだ。将来発展すると見込んだのだろう。 熱田神戸橋東から東築地までの2.4キロを結ぶ軌道を通したのは明治43年(1910年)のことだ(1912年に熱田神戸橋東と熱田伝馬町が開通)。 しかし、当時はまだ沿線が未開発な土地で乗客が少なかったため、山田才吉は次々と手を打っていく。 集客の目玉として水族館や遊園地を作り、海水浴場も開いた。栄に建てた東陽館が火事で焼けてしまったため、それに代わる南陽館も建てた。 東築地五号地の最南端にあった南陽館は、木造五階建で42の客室を持ち、120畳の大広間を備えていたという。 名古屋初の本格的な水族館だった名古屋教育水族館は、東築地の南陽館の北にあり、教会を思わせるモダンな洋風建築だった。 三階建の本館をはじめ、パノラマ水槽のある八角形の龍宮館やはく製などを展示した参考館など、魚類1,200種、鳥類やは虫類、ほ乳類のはく製まで幅広く展示していた。 そこに遊園地が併設されるという一大レジャーランドが明治時代の東築地にあったのだ。 ちなみに、港区の竜宮という地名は、この龍宮館から来ている。 しかし、大正元年(1912年)、台風の高潮によって南陽館が崩壊、水族館も貯木場の流木によって壊れてしまった。 それでも山田才吉はめげることはなかった。南陽館を三階建とし、水族館は木造平屋建にして再出発した。更には大仏を建立する計画を立てるも、これは条件が合わず、東海市に作った料亭「聚楽園」に建立することなった。 熱田軌道は大正11年に市電となり、水族館と南陽館は昭和10年に閉館となった。 その2年後の昭和12年、山田才吉はこの世を去り、才吉の夢物語は幕を閉じた。 水族館の魚たちは昭和11年に開館した知多半島の新舞子水族館に譲られ、戦後の昭和20年には水族館跡地に東築地尋常小学校が移転してきた。 市電は昭和15年に廃止され、南陽通に移された。 今の東築地にあるのは大同特殊鋼の工場と小学校くらいだ。名古屋港にイタリア村があった頃、ここから眺める夕焼け風景が好きだった。イタリア村も今はもうない。東築地にかつてレジャーランドがあったことを覚えている人ももうほとんどいない。夢の跡というのは案外味気ないものだ。 今昔マップで明治から昭和にかけてダイナミックに変化していく様を見ると面白い。
人は去り、歴史は埋もれ、記憶は薄れても神社は残る。それが救いといえば救いだ。
作成日 2018.4.7(最終更新日 2019.8.26)
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