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神明社(加福)


かつて化物新田と呼ばれた場所



加福神明社

読み方しんめい-しゃ(かふく)
所在地名古屋市南区加福町3丁目3 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
アクセス名鉄常滑線「大江駅」から徒歩約3分
駐車場 なし
その他例祭 10月10日
オススメ度

 道徳の稲荷社は神明社のような稲荷社だけど、ここ加福の神明社は稲荷社みたいな神明社だ。神明鳥居をくぐって参道を進むと本社前に五連の稲荷鳥居があり、本社は板宮造で、左右の末社は稲荷社と金刀比羅社となっている。
 創建や遷座のいきさつがよく分からない神社でもある。神社本庁への登録はなく、『愛知縣神社名鑑』にも載っていない。



 ここ加福(かふく)の地名は、かつて加福新田と呼ばれていたことから来ている。
 1808年(文化5年)、又兵衛新新田の前面の砂浜が熱田社の控地となり、開発を始めたものの成功しなかった。
 それを受けて1829年(文政12年)、井筒屋伊助(後の中北薬品の初代)、川崎屋藤助、八神八左衛門、金原大和守(富部神社神官)が資金を持ち寄って開発を始め、苦労の末、1835年(天保6年)に完成させた。借金もかなり作ったという。当初は當栄新田(とうえいしんでん)と呼んでいた。
 ようやく完成させた新田ではあったのだけど、ほどなく内田忠蔵に譲渡されることになる。そのとき加福新田と名を改めたようだ。
 その後も高潮などでたびたび水害に見舞われ収穫が上がらず、小作人たちが逃げ出すほどだったという。
 この新田の守り神として建てられたのが加福の神明社かどうだったのかがはっきりしない。どこにあったのか、誰が建てたのか、どんな神を祀る神社だったのかも分からない。
 1860年(万延元年)6月29日の台風で完全に海水に浸かってしまい、そのまま放棄されることことになった。再開発されるのは明治13年(1880年)のことだ。



 新田開発途中の1833年(天保4年)7月2日の夜、新田に海獣が現れた。高潮によって打ち上げられたそれは、江戸時代の人たちが見たこともない生きものだったため大変な騒ぎになった。
 日置の漁師が網で捕まえて大須清寿院前の芝居小屋で見世物にしていたところ、一ヶ月ほどで衰弱死してしまったという。
『尾張名所図会』(1844年)には打ち上げられた海獣とそれを捕まえようとする漁師たちの絵図が載っている。そこには「熱田の浦人 海獺と称するを捕らふ」とある。
 海獺(うみうそ/うみおそ)はアシカやラッコのことをいうのだけど、絵を見るとアザラシのようだ。
 アシカとアザラシの簡単な見分け方としては、耳があるのがアザラシで耳の穴しかないのがアシカだ。見比べると体型や前の手などがけっこう違っている。
 この出来事によって化物新田と呼ばれるようになる。



 1860年の台風による水没から1880年(明治13年)までの期間、神社はこの場所にはなかった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社のあるあたりは荒れ地となっている。
 1912年(大正元年)に神社のすぐ東を愛知電気鉄道の傳馬駅 – 大野駅間が開通した(翌1913年に秋葉前駅 – 神宮前駅間が開業し全通)。
 1920年(大正9年)の地図を見ると、加福新田は田んぼになっているものの、神社は描かれていない。
 1932年(昭和7年)の地図ではすでに田んぼではなく建物が建っている。西は貯木場になっていたから、その関係の建物ではないかと思う。この時点でも鳥居マークはない。
 鳥居のマークが表れるのは1937-1938年(昭和13年)の地図からだ。
 現在建っている鳥居には昭和10年の年号が刻まれており、鳥居建設記念で撮られた古い写真も残っている。
 境内には昭和8年5月建立の「明治壬辰歳同年会」という石柱もあるので、この年にはすでにここにあったということだろう。
『南区の神社を巡る』によると、七所神社の記録に境外社として昭和初期に現地に神明社として遷座したと書かれているそうだ。
『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)に、この新田や神社に関する記述は見られない。



 新田開発を始めた井筒屋伊助は、1829年ということからすると3代目か4代目に当たる。
 初代は大野村十王堂で1701年に生まれ、名古屋伝馬町の井筒屋油店へ奉公にあがり、25歳の時に伝馬町で油屋を始めて井筒屋伊助を名乗った。
 46歳のときに薬業も始めて、これが後の中北薬品(web)へとつながっていく。
 2代目から5代目まで養子ということは男の子に恵まれなかったのか世襲をよしとしなかったのか。3代目は1773年生まれの1834年没で、4代目が1808年生まれで1856年没だから、新田開発の1829年といえば3代目は隠居して4代目に代替わりしていただろうか。
 開発時点で5,100両を投じ、更に借金を重ねたというから相当な資金をつぎ込んでいる。それが一時は海に戻ってしまったのだから、やりきれない。干拓による新田開発は言葉で言うほど簡単なことではなかっただろう。



 明治13年(1880年)に加福新田は埋め立てられ、後に貯木場となった。
 明治20年代から30年代にかけて日清戦争・日露戦争などもあり、木材の需要が増え、他県からも木材が熱田に運び込まれるようになると、堀川の貯木場だけでは間に合わなくなり、大正14年(1925年)に加福にあらたな貯木場が作られることになった。
 昭和から戦後にかけても貯木場はずっと続き、現在も規模は縮小したものの一部は現存している。その他は大江グラウンドゴルフや工場の敷地になった。



 名鉄大江駅のすぐ北の線路沿いに神社はあり、熱田方面に向かう車窓の左手に見える。
 ここがかつては海に浸かった新田でアザラシも打ち上げられたんだなどと思いつつ車窓風景を眺めていると鉄道移動も少しは楽しめるんじゃないかと思う。普段何気なく目にしている風景も、その歴史を知った上であらためて見てみると、違った景色に見えることがある。




作成日 2018.4.13(最終更新日 2019.8.27)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

化物新田の面影はもうない加福の神明社

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