60メートルほど南にある武島天神社(地図)とともに名古屋城(web)築城の際に城内にあったものをここに移したとされる。戦前まで山神社と天神社は今の場所に並んでいた。 名古屋城以前の那古野城廃城後の絵図を見ると、那古野台地(熱田台地)の北西端の縁に「天神」、「山神」と書かれており、これがそうなのだろう。名古屋城時代でいうと、天守の北に天神、天守の西に山神という配置になる。 ついで書くと、台地下の御深井丸(おふけまる)に「宗像社」が、二の丸の場所に「天王」と「八王子」が並んでいた。 宗像社は宗像社(浄心)らしいのだけどはっきりしない。天王は今の那古野神社で、八王子は北区の八王子神社春日神社のことだ。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「『名陽図会』に文和元年(1352)の棟札あり、と初め御深井丸に在ったが慶長遷府の際、今の社地に遷座すと、明暦二年(1656)寛文二年(1662)、元禄三年(1690)に修造、明治5年、村社に列格し明治40年10月26日、指定村社となる。延宝元年(1673)藤本坊の次子三谷右近分離し以来三谷家代々に奉仕する」 1352年といえば室町前期の南北朝時代だ。これが創建年なのか修造した年なのかは分からない。
『尾張志』(1844年)にはこうある。 「山神ノ社 大山祇ノ神を祭る 勧請の年月詳ならす 府志に傳云此地云武島遷府以前今金城之地呼猿屋陌民家當時民人十一月集祠修祭事といへるが如し摂社神明社稲荷社例祭十一月六日試楽七日湯立あり神主三谷金吾源延之」 『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。 「山神社(やまがみのやしろ) 興西寺の東の方にあり。舊地は御城深井の内なりしが、慶長御遷府の時ここにうつる」 興西寺については、「上宿五平蔵町にあり。本願寺宗東派、三河國針崎勝鬘寺末。永禄元年の開基なり」とあり、元禄元年は1558年なのだけど、別の情報では1411年に甚目寺に創建されて、名古屋城築城の際に北鷹匠町に移され、1645年に尾張藩初代藩主の義直が現在地(地図)に移させたという。 尾張藩三代藩主の綱誠以降歴代藩主の位牌を安置していたことから上宿御坊ともいわれた。
上宿は「かみしゅく」と読むのだと思うのだけど、このあたりの古い地名だ。かつては上宿小学校(国民学校)もあった。 上宿山神社は、「かみしゅくやま-じんじゃ」だと思ったら違っていて、「かみしゅく-やま-じんじゃ」だった。かつては単に山神社だったのを上宿山神社に改称した。 現在の町名の城西は名古屋城の西だからという理由で名づけられたのだけど(昭和55年)、いかにも味気ない。 江戸時代のこのあたりは下級武士の屋敷や商家などが集まる地区だった。『尾張志』や『尾張名所図会』の編さんにたずさわった岡田啓もここに住んでいた。
『愛知縣神社名鑑』の「延宝元年(1673)藤本坊の次子三谷右近分離し以来三谷家代々に奉仕する」という点について補足しておくと、藤本坊というのは巾下浅間の山伏で、その次男が三谷右近を名乗って引き継ぎ、代々三谷家が社家となった。 三谷家は尾張藩十社家のうちのひとつなり、江戸時代を通じて有力社家となっていった。 ちなみに十社家の筆頭が東照宮(名古屋)の吉見家で、日ノ出神社(加藤)、洲崎神社(権神主・吉川)、朝日神社(但馬)、泥江縣神社(安井)、洲崎神社(正神主・永田)、赤塚神明神社(近藤)、村木町白山社(安井)、冨士浅間神社(三谷)、広井浅間社(森)、上宿山神社(三谷)の十家がそうだった。
昭和20年5月の空襲により山神社と武島天神ともに焼失。 戦後、天神社を山神社に合祀して、上宿神社とした。 その後、天神社を泥町(城西5丁目)に分離独立させ、上宿神社は山神社に戻り、今に至る。
境内の一角に「橿原神宮遥拝所」と刻まれた石柱がある。 遙拝所といえば伊勢の神宮(web)や皇城、御嶽山あたりが名古屋では多いのだけど、橿原神宮(web)の遙拝所は珍しい。私は初めて見た。 拝殿の中をのぞくと五七桐紋が入った垂れ幕がかかっている。それも何かつながりがあるのだろうか。 そもそもの話でいうと、熱田台地の北端に、いつ誰が山神社を建てたのか、ということになる。天神社との距離からしても二社は無関係とは思えない。最初から二社セットだったかもしれない。 1352年の棟札が創建ではなく修造だとすると、創建は鎌倉時代もしくはそれ以前までさかのぼるということになるのか。 津田正生は上宿の天神が『国内神名帳』の従三位泥江縣天神のことではないかなどと言っている。現在の泥江縣神社は江戸時代は広井八幡宮と称す八幡社だったことからするとなくはないのか。 そのあたりのことは武島天神社のところで書くとして、上宿山神社は非常に古い神社という可能性を持った神社といえる。
作成日 2018.5.3(最終更新日 2019.9.8)
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