大森垣外村(おおもりがいとむら)の神明社だと思うのだけど、ちょっとよく分からない部分がある。 今昔マップの明治21-31年(1888-1898年)の地図を見ると、大森垣外村の集落の北のはずれに鳥居のマークがある。これが今の村合町にある神明社だ。 江戸期の書の大森垣外村の項を見るとそれぞれ以下のようになっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「大森海道村 社四ヶ所 内 神明熊野白山 八龍 天神 山神 社内弐反弐畝 前々除 円福寺・桂星寺持分」
『尾張徇行記』(1822年) 「社四ヶ所 神明熊野白山 八龍天神山神 社内二反二歩前々除 利海寺書上ニ、八龍宮界内一反五畝前々除 桂星寺書上ニ、白山神明熊野社界内三畝六歩前々除 天神社内長五間横四間 山神社内長十五間横四間共ニ前々除」
『尾張志』(1844年) 「神明社 白山社 熊野社 以上三社同所 天神ノ社 八龍社 五社ともに大森垣外村にあり」
『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「創建は延享元年(1744)子十一月と伝える。明治5年5月村社に列し、大正2年1月28日、許可を受け、同年2月16日、字宮東536番地八龍社、又同年9月1日、字欠口70番、天神社、字川田866番、杵島社、字山屋敷174番山神社の3社を合祀した。昭和61年7月28日祭具庫を建造する」
江戸時代は神明と白山と熊野が同じ場所にあったようで、白山社は今の西城の白山神社のことだ。同じところにあった神明社が北に移されたのかそうではないのか。 『愛知縣神社名鑑』は西城の白山神社のところで、村東にあった神明社を大正9年に白山神社に合祀したと書いている。村東の地名は残っていないのだけど、名前からして村の東にあったということだろうから、村の北のはずれに位置する村合の神明社とは別だろう。 『寛文村々覚書』にある神明社が今の村合の神明社だとすれば、1744年創建という社伝は間違っていることになる。もし1744年創建だとしても、『尾張志』や『尾張徇行記』に記載がないというのも不自然だ。 なんともすっきりしない感じだ。
大森垣外村は、大森村の人間が開墾したからとか、大森村へと続く海道だったからというのが由来とされる一方、ふたつの高地の中間にあって耕作や住むのに適したところという意味の「ガイト」から来ているともいう。大森海道村は書き間違いかもしれないと『尾張徇行記』は書いている。 利海寺はもともと円福寺といって大森垣外村にあったのが、低湿地でたびたび水害に遭ったため西城に移ったという経緯がある。神明社は大丈夫だったのだろうか。 大森垣外村は鎌倉時代にはすでに集落があったと考えられているところだ。神明社の創建の1774年というのはどういう根拠なのか。 かつての大森垣外村の範囲内に村合町の神明社と西城の白山神社の二社の村社があるということは、どちらかは大森垣外村の神社ではなかったということかもしれない。江戸期の書からすると西城の白山神社が村の神社だった可能性が高い。だとすると、村合の神明社はどこの村の神社だったのか。 今昔マップの明治中頃は江戸時代後期の様子が色濃く残っているのだけど、そのままというわけではない。寺社は明治元年の神仏分離令によって大きく変わった部分もある。 ここで調査は行き止まりとなったのだけど、なんともはっきりしないもやもや感が残る。
作成日 2017.5.14(最終更新日 2019.1.24)
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