社宮司という名前からしてミシャクジ信仰から発している神社だろうということは想像がつく。しかしながら情報がまったくないため、誰がいつどんな神を祀ったのかといった具体的なことは何も分からない。
ここは江戸時代は川村だったところだ。川村という地名ではなく、「川」という名前の村だったという意味だ(中村も中という名前の村だった)。 『尾張国地名考』の中で津田正生は、「徒士川条の端にあり此故に呼なるべし」と書いている。少し北を庄内川が流れている。庄内川は何度も流路を変えているので、かつてはもっと南を流れていたかもしれないし、集落は何度も水害に遭ったのではないかと思う。 江戸期の書の川村の項はそれぞれ以下のようになっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 熊野権現 八劔 山神 社内壱反壱畝拾六歩 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「社三ヶ所内熊野権現八劔山神界内一反一畝十六歩前々除」
『尾張志』(1844年) 「熊野三所社 八劔社 八幡社 川村にあり 熊野社 神明社 八幡社 以上三社同所」
このうちの熊野権現(熊野三所社)は、式内社とされる川島神社(地図)のことで、江戸時代から明治前期までは熊野社と称していた。 この川島神社を『延喜式』神名帳にある山田郡川嶋神社とすることにはやや問題があるのだけど、この熊野社が川村の中心神社だったことは間違いない。 明治15年(1882年)に熊野社から川島神社に改称した。 八劔社、八幡社、山神社は明治44年(1911年)に川島神社に合祀された。 この社宮司神社に相当するような神社は江戸期の書には出てこない。 今昔マップを見ると、現在社宮司神社が建っている場所は、明治から昭和の戦後まで農地だったことが分かる。1960年以降に宅地化されたようで、初めて鳥居のマークが表れるのが1976-1980年の地図だ。 今昔マップは必ずしも細かく描かれていないので鳥居マークがないからといってそこに神社がなかったことにはならないのだけど、今のように神社としての体裁が整えられたのは1980年頃のことかもしれない。 1980年は昭和55年で、川村町ができたのは昭和53年(1978年)だ。大字川・大字大森垣外の各一部より成立した。
ミシャクジ信仰とは何か? その問いに明確に答えることは難しい。ただぼんやりとしか分からないし、祀っていた当時の人たちも正体が分かっていたかというと疑問だ。 石神や西宮などとも表記され、シャクジ、シャグジ、サイグウジ、シャグチなど、呼び方も多数ある。 石を神として祀ったり、柳田國男はこれを塞の神(サイノカミ)だといい、道祖神と同一のものとしたり、様々なことが言われる。諏訪地方の古い信仰と関わりがあると指摘する人もいれば、縄文時代からの信仰ともいう。 村の守り神として村の入り口に祀ったり、しゃもじを奉納して願掛けしたりした。 その名残は今も消えずに残っており、それが社宮司社だったり、石神社だったり、西宮社だったりする。 社の分布としては、長野県を中心に中部地方に多いという。ある調査によると愛知県内には200社以上のミシャクジ信仰に関する社があるそうだ。 名古屋でいうと、中川区や南区などの川や海に近いところで祀られている印象がある。金比羅と一緒に祀られていることからも、水との関係がありそうにも思える。
川村の社宮司神社がいつ誰によって建てられたのかは分からない。村人たちの素朴な願いによって建てられた祠から始まっただろうか。 始まりがどうであれ、こうして現代までつながったことの意味は小さくない。どんな神を祀っているかはそれほど重要ではないと思うことがあるけど、ここもそういえるかもしれない。 神社の少し北に川嶋神社会館というのがある。川島神社が社宮司神社を管理しているとすれば、川島神社の人に訊けば何か教えてくれそうだ。
作成日 2018.5.18(最終更新日 2019.1.25)
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