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神明社(吉根)


江戸時代に建てられた神明社という感じではない



吉根神明社

読み方しんめい-しゃ(きっこ)
所在地名古屋市守山区深沢1丁目 地図
創建年1724年?(江戸時代中期)
旧社格・等級等不明
祭神天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセスゆとりーとライン「上島停留所」下車(大曽根←→高蔵寺)
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 この神明社は古墳の上にあり、城跡でもある。
 深沢・上島一帯は独立した河岸段丘で、東西150メートル、南北50メートルの範囲に小規模の古墳が8ヶ所見つかっている。出土した須恵器から7世紀後半に築造されたと考えられている。これは古墳時代の最晩期に当たり、すでに墳丘は築かれず、地面を掘って石を並べて石室を作るというスタイルになっている。
 吉根城は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の家臣だった北野彦四郎の城と伝わっている。
 神明社がある場所が本丸で、右手の山神社がある小山が物見台だったのではないかと考えられている。それ以外の詳しいことは分かっていない。



 社伝では創建を1724年としている。しかし、実際はもっと古い。
 1670年頃にまとめた『寛文村々覚書』に神明社が載っており、前々除となっていることから1608年の備前検地のときにはすでに除地だったということで、遅くとも戦国時代にはあったと考えられる。
 吉根村の神社についてはこうある。
「吉根村 社三ヶ所 内 八幡 神明 山之神
 社内五反弐畝弐歩 前々除」



『尾張徇行記』(1822年)ではこう書いている。。
「社三ヶ所 八幡祠官長谷川助大夫書上ニ、氏神八幡社内松林東西四十二間南北十六間前々除、上田五畝十歩備前検除、神明社内松林四五間四面前々除、山神社内松林七間四面前々除、何レモ勧請年紀不知」



『尾張志』(1844年)はこうだ。
「八幡社 吉根村にあり 天王白山を配享す」
「神明社 同むらにあり」



 1724年は創建ではなく遷座か修造した年ではないかと思う。



 今昔マップの明治22-33年(1888-1898年)を見ると、神社は現在地よりもっと北にあったことが分かる。この当時、庄内川の川幅は今より狭く、当時の社地は現在川底になっている。まだ吉根橋は架かっていない。
 吉根村は庄内川の南の段丘に沿うように家が並ぶ南北に細長い村だった。もともとは庄内川近くに集落の中心があり、たびたび川が氾濫して被害を受けたため、少しずつ南の高い場所に移っていった。集落の北西は砂入地になって作物を育てることができなくなっていた。
 溜め池が多いのは当初、川から水を引けなかったからで、明治に入って地面を掘って村に水を通す工事が行われている。
 大正8年(1919年)に、神明社は吉根村の八幡神社に合祀された。
 その後、昭和48年(1973年)に元の鎮座地に遷座して現在に至る。元のといっても元地より南の高台で、八幡社の飛地境内社という扱いになっているようだ。
 そのせいもあるのだろう、神社本庁に加盟しておらず、『愛知縣神社名鑑』にも載っていない。



 本社向かって右手の小山の上に山神社(やまのかみのやしろ)がある。
 これは吉根村にあった山神社だと思う。
 石碑が二つあるので、それぞれ別の場所にあったものを移したのかもしれない。
 境内向かって左手には水神と刻まれた石碑もあり、大正二年九月建立と刻まれている。
 古い吉根橋のたもとにあったものを、新しい吉根橋が架けられることになったとき、ここに移された。



 吉根も古墳時代からの歴史がある土地なので、古い神社があっても不思議ではない。この神社ももともとはアマテラスを祀る神明社ではなく別の神社が元になっている可能性もある。
 場所は移されているものの、古い空気感をたたえている。昭和48年に移されたものという感じではない。
 それは神社以前に土地が積み重ねてきた歴史の重みかもしれない。




作成日 2018.5.25(最終更新日 2019.1.25)


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