大森霞ヶ丘交差点の北、瀬戸街道沿いにある小さな白龍社。 現在、瀬戸街道と呼ばれている道は明治以降にそう呼ばれるようになったもので、水野街道や殿様街道など、いろいろな呼び方をしていた。現在の正式名は愛知県道61号名古屋瀬戸線という。 尾張と信州を結ぶ道として古くからあったと考えられており、南区の星﨑あたりで作った塩を信州方面に運ぶ際などにも使われた。 江戸時代になると、名古屋城(web)と信州をつなぐ道として整備された。 名古屋城下から大曽根、守山、小幡、大森、新居、水野、定光寺と結び、その先で善光寺街道とつながった。 尾張藩初代藩主の義直は定光寺の土地がお気に入りで、しばしば鷹狩りに出かけた。その途中の大森村で村娘を見初めて側室として、その歓喜院が産んだ子が二代藩主の光友となった。 遺言によって義直は定光寺に埋葬されている。 殿様街道と呼ばれるのは、尾張藩の代々の藩主が定光寺の義直廟に参ったことが由来となっている。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)の大森霞ヶ丘あたりを見ると、大森村から少し離れた小さな集落があり、大森新田村とある。 『尾張徇行記』(1822年)の大森村の項にはこう書かれている。 「此村ハ、信州飯田街道筋ニ農舎数戸、小幡村界ヨリ印場村界マテ連綿トシテ散在セリ」 やはり信州へ続く道という認識だったようだ。 同時に、瀬戸の焼き物を名古屋城方面に運ぶ道としても活用された。
この白龍社がいつ建てられたのかは伝わっていない。江戸時代かもしれないし、明治以降かもしれない。 この辺りは台地上で昔は矢田川から水を引くことができず、湧き水が頼りだった。少し北の大森八龍に水源があったので、それを利用していたのだろう。 雨池(地図)は新田開発のために江戸時代初期に造られた溜め池だ。 そういった事情を考えると、水難除けというよりも雨乞いの祈りのために建てられたのではないかと予想はできる。 大森八龍には八龍神社(地図)もある。
本社とは別に「龍神」と彫られた石碑がある。 これは大正13年(1924年)に大森大清水の西にあった池のほとりに祀られたものという。 昭和54年(1979年)にここに移された。 鳥居もそのときに建立されたもので、裏に「合祀 記念 昭和五十四年二月 大森新田嶋中」とある。
神社の隣にある霞ヶ丘バス停待合所はかつての名鉄バスの遺構なので、ここで待っていてもバスは停まってくれない。現在のバス停はもう少し東にある。 屋根付きなので、神社を訪れた人や近所の人が雨宿りや日よけで利用しているのかもしれない。
かつてたくさんあった山神社は大部分が別の大きな神社に合祀されてしまったのに対して龍神社はわりと残った。その差がなんだったのか、分かるようで分からない。山の神より水の神の方がより生活に密着して切実だったためだろうか。生活で水に困らなくなったのはわりと最近のことだ。 神社本庁に加盟している龍神社はほんの一部で、大部分は氏子や近所の人たちによって守られている。もう一世代、二世代後までそれらが残るかどうかはなんとも言えない。世代が変わっても年を取れば神社を大事にする気持ちが強くなって守られていくものと信じたい。
作成日 2018.5.28(最終更新日 2019.1.25)
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