かつての伊勝村の八幡社。それで済めば話は簡単なのだけど、この神社が『延喜式』神名帳(927年)の尾張国愛智郡伊副神社という可能性があるのかと考えると話がややこしくなる。 鳥居をくぐってすぐの左手に新しく伊副神社を建てている。その根拠として「伊副神社天明三癸卯年春伊勝村神主」と書かれた棟札を所蔵していることと、かつて伊勝八幡の西に伊副池という池があり、小山に社が祀られていたことを挙げている。 また勝手なことを言ってると苦笑いをしたのだけど、いろいろ考え合わせてみるとまんざらない話ではないと思えてきた。
ここは御器所台地の上で、南の瑞穂台地と連続し、西の熱田台地とは入り海で隔てられていた。かつては現在の鶴舞公園(地図)あたりまで深く海が入り込んでいた。 鶴舞公園の東には尾張地方最大級の円墳、八幡山古墳(地図)がある。直径約82メートルで5世紀中頃の築造と考えられている。 その南の御器所には、御器所八幡宮(地図)がある。平安時代前期の850年頃に、第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の勅願所(ちょくがんしょ)として熱田社(熱田神宮/web)の鬼門を守護するために創建されたとされる。この御器所八幡宮は『延喜式』神名帳の愛智郡物部神社ではないかという話がある。 御器所から少し東に行った川名には式内社とされる川原神社(地図)がある。 その川名の東にあるのが伊勝八幡だ。 川原神社の祭神は埴山姫神(はにやまひめのかみ)、罔象女神(みつはのめのかみ)、日神(ひのかみ)で、土、水、日の神を祀っている。 伊福神社の祭神は罔象女神と龗神(おかみのかみ)で、水の神だ。 かつてこのあたりに大きな川があったという話がある。
伊副神社の論社として、愛知郡東郷町の富士浅間神社(地図)、あま市七宝町の伊福部神社(地図)、緑区鳴海町の熊野社(地図)、北名古屋市宇福寺の天神社(地図)などが候補とされている。 しかし、伊副神社は愛智郡なので、愛智郡ではない郡にあった神社は候補から外れる(遷座したのでなければ)。 それぞれの神社がそれぞれに主張しているようだけど、どこも決め手に欠ける。 伊副神社は古代の有力豪族だった伊福部氏の神社と考えられる。 伊福部氏は因幡を本拠とした物部氏の一族で、大和国葛城にいた伊福部氏がこの地方に移ってきて尾張氏を名乗ったという説もある。 尾張における伊福部氏の本拠は一宮市(旧葉栗郡木曽川町)にある伊富利部神社(いふりべじんじゃ/地図)がある場所だったとされる。伊冨利部神社も式内社だ。 伊副神社が伊福部氏ゆかりの神社だとすると、その一族の誰かが愛智郡に移って氏神を祀ったと考えるのが自然だ。 伊富利部神社は平安時代後期以降に八幡信仰の影響を受けて誉田別命を祀って正八幡宮を称していた。 御器所八幡も物部神社から改称した可能性があり、式内社とされる古井村の高牟神社(地図)もかつては古井八幡といっていた。 同じように伊副神社が伊勝八幡と改称したとは考えられないだろうか。伊勝八幡は古くから鳩八幡とも呼ばれていた。
伊勝村について津田正生は『尾張国地名考』の中で「正字 井河津の釣か」と書いている。断言はしてないから、確信はなかったようだ。 河の津というのであれば川湊があったことも考えられるのだけど、近くにそんなに大きな川はない。少し離れたところを流れる山崎川もこのあたりではまだ川幅も狭い。やはり、かつて大河が流れていたというのは本当だろうか。 江戸時代前期の尾張藩士だった津田房勝は随筆『正事記』で、あるとき空海がこの地を訪れて水を求めたら村人が断ったため、村中の井戸が涸れてしまい、 井湯の里、井渇の里と呼ばれ、後に伊勝に転じたという話を書いている。 『元禄郷帳』には居勝と表記されている。
『尾張志』(1844年)はこう書く。 「伊勝村にあり應神天皇を祭る嘉吉元年當社を御器所村に移して祭れるよし社説にいえり扨は其遺址の神也此社に陶器の狛犬ありうらの銘に應永廿五戊戌歳十二月朔日熊野願主浄蓮とあり 境内の末社 白山社 熊野社あり社人を坂尾右近と云」 嘉吉元年は1441年に当たる。室町時代の中期だ。 この年にこの神社を御器所村に移して、その跡地に祀ったのが伊勝八幡だという。 本当だろうか? 『尾張志』の作者がそう言っているのではなく社説にそうあると言っている。 御器所村に移したということは御器所八幡とどう関係してくるのか。伊勝村の神社が御器所八幡になったということなのか、御器所八幡に合祀したということか、もしくは御器所八幡とは無関係に御器所村に移したというだけなのか。 『尾張志』も書いているように、伊勝八幡は陶製の狛犬を所蔵しており、「応永廿五戊戌歳十二月朔日熊野願主浄通」の銘が入っている。応永25年は1418年で、御器所村に移したとされる1441年より前だ。 熊野の僧侶、浄通という人物が奉納したもののようだ。 犬のような姿をしているのは、熊野の神の使いである狼をかたどったものではないかともいわれる。 このことからしても、少なくとも1418年には伊勝村に神社があったということは間違いなさそうだ。 御器所村に移した云々というのはよく分からない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の伊勝村の項はこうなっている。 「社 五ヶ所 内 荒神 八幡 熊野 白山 天神 社内弐町六反五畝歩 前々除 当村祢宜 久太夫持分」 『尾張徇行記』(1822年)はこうだ。 「府志曰、八幡祠在伊勝村、伝言嘉吉元年以此祠移祭御器所村、然則此其遺祠乎 摂社熊野白山」 『愛知縣神社名鑑』によると、明治5年(1872年)に村社に列格して、大正15(1926年)に供進指定社となり、昭和54年に八幡社を伊勝八幡社と改称したという。今は伊勝八幡宮を称している。
現在の祭神の菊理姫命(ククリヒメ)は白山社を合祀したためだろうけど、武速素戔之男命(スサノオ)はどこから来ているのだろう。熊野の神を明治以降にスサノオとしたのだろうか。
戦国時代、伊勝村には佐久間盛政の居城の伊勝城があった。 伊勝八幡の西北にある宝珠院(地図)の南あたりだったと考えられている。 御器所一帯は佐久間氏の一族が治める土地で、盛政も御器所で生まれている。 父親の盛次は、織田信長の家臣としてよく知られる佐久間信盛とはいとこに当たる。 母親は柴田勝家の姉ということで、盛政は勝家の甥ということになる。 御器所西城を築いてそちらに移った後、柴田勝家の与力となって北陸についていき、後に加賀金沢城の初代城主となった。 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が秀吉に敗れると盛政も降伏。秀吉から肥後一国を与えるから家臣になれといわれるも固辞した。せめて武士らしく切腹させてやるというのも断って処刑された。享年30。 辞世の句は「世の中を廻りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり」と伝わっている。 火宅(かたく)というのは煩悩や苦しみに満ちたこの世を火に包まれた家にたとえた仏教の言葉だ。 小さな車では世界中を回ることなどできないように、人がなせることも知れている。さあ、この苦しみの世界から旅立とうか、といった意味だ。
伊勝八幡宮は伊副神社なのかという問いに対する答えは出ない。可能性としてはある気がするけど、今の伊勝八幡に古社臭さみたいなものは感じられない。もしそうだったとしても、今やすっかり別の神社になってしまった。
作成日 2018.5.28(最終更新日 2019.3.19)
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