江戸時代のここは押切村だっただろうか。西の栄村ではないと思うのだけど、境界線がよく分からない。 江戸時代の美濃路は現在の菊ノ尾通りの150メートルほど北を通っており、街道沿いに榎白山神社(地図)や八坂神社(地図)があった。 榎白山神社は押切村で、八坂神社は栄村だったようだ。 押切村には神明社もあって、南押切の神明社(地図)として現存している。 『尾張志』(1844年)の押切村の項には神明社しか載っていない。 『尾張徇行記』(1822年)はこうなっている。 「権現一社界内年貢地、別当正寿院真言宗高野山三昧院ニ属ス 府志曰、白山祠神明祠倶在押切村」 近くにある正寿院が管理する権現が一社あって、『張州府志』に白山社と神明社があると書いている。この権現は白山権現のことだろう。 『寛文村々覚書』(1672年頃)には「権現一社 社内年貢地 右社内ニ別当 真言宗 高野山三昧院末寺 正寿院」とあり、やはり権現しか出てこない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、東の名古屋城下と西の庄内川との間を美濃路が通り、その沿線にびっしり建物が並んでいる。ただし、明治中期でも依然として北と南は広大な田畑が広がっていたようだ。 栄村の集落は美濃路から少し離れた南西にあった。今の栄生駅の西南に当たる。 則武新町の津島神社の位置を確認すると、美濃路から南に延びる道沿いということになる。この道沿いにもびっちり建物が建ち並んでいたようだ。美濃路沿いに土地がなくなって新しく道を延ばして町にしたのだろう。新町という名前がそれを表している。 大正から昭和にかけて、それまで農地だったところが住宅地に変わっていく。1920年(大正9年)には美濃路の南を鉄道が走っている。これは路面電車だろうか。 菊ノ尾通りが整備されるのは戦後のことで、その頃にはもう鉄道の線路は消えている。 1937年(昭和12年)の地図に鳥居マークが現れる。菊ノ尾通りを挟んだ北あたりで、その頃には菊ノ尾通りの原型ができており、神社のところが行き止まりになっている。 この鳥居マークが津島神社だとしたら、戦後に菊ノ尾通りが拡張されるのに伴って現在地に移されたということかもしれない。 今は隣接する正信寺の敷地内に間借りするように鎮座している。この正信寺について何か分かれば手がかりになると思ったのだけど、ほとんど情報もなく、何も分からなかった。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「社伝に慶安四年(1651)の創祀という、享保年中(1716-1735)再建する。明治6年太政官布達により廃祭となる。氏子の歎願により明治12年5月、共祭公許となる」 明治にいったん廃社になったものを氏子の希望で復活させてもらったという話はちょくちょく出てくる。ここもそういう神社のひとつだったようだ。 明治に廃社とされたということは、やはり神仏習合の牛頭天王を祀る天王社だったということだろう。今は津島神社としてスサノオを祀っている。
旧住所は菊ノ尾通3丁目で、則武新町は昭和56年に本塚町・菊井町と則武町はじめ12町の各一部から成立した。 菊ノ尾通は通りの名前として残っていて、「きくのおとおり」と濁らない。 菊井町の町名は菊水寺にあった井戸が由来となっていることからすると、菊ノ尾も同じように菊水寺から来ているだろうか。
毎年5月に石取まつりが行われているそうだ。 石取祭(いしとりまつり)というと桑名の祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されており、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。 桑名では30台を超える祭車が曳かれ、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら町内を練り歩く。そのため、日本一やかましい祭りなどともいわれる。 則武新町の津島神社でも鉦や太鼓を打ち鳴らして練り歩くというスタイルのようだ。祭車も出るのだろうか。 桑名の祭車が三重県をはじめ、愛知県や岐阜県などに売却されたり貸し出されたりしたことで石取祭が広がっていったとされる。
この神社は美濃路の集落の守り神として祀られたのが始まりだろうと思う。いつ誰がどこにというとちょっと分からない。場所も移されている可能性がある。 とりあえず現状で分かることはこれくらいだろうか。
作成日 2018.6.7(最終更新日 2018.12.19)
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