矢田川と庄内川が合流する南の土手下にある水神堂。 堂といっても寺のお堂といった感じではなく、公民館か集会場のような建物で、入り口の上に手彫り感満載の「八大龍王 水神堂」という額がかかっている。 おそらくこの建物の中で八大龍王を祀っているのだろうけど、入り口の扉は閉ざされており中をうかがい知ることはできない。賽銭箱が置かれているから一般参拝者を迎える気はあるようだ。 外観からはこれ以上のことを知る手がかりは得られなかった。 水神堂の読み方は「みずがみ-どう」なのか「すいじん-どう」なのかも分からない。「みなかみ-どう」もあり得るか。
今昔マップの明治から大正にかけてのものを見ると、水神堂がある場所は稲生街道沿いだったことが分かる。 北側はおそらく土手で、矢田川と庄内川の河原は桑畑になっている。 この当時、福徳村、中切村、成願寺村の集落は矢田川と庄内川に挟まれた狭い土地にあった。しかし、たびたび水害に襲われたことから、後に矢田川の流れを庄内川に近い北側に付け替えた。その結果、三つの村は矢田川の南側になった。現代の地図を見ると、安井から中切、福徳、稲生にかけては不自然に道が蛇行しているのが見てとれる。これがかつての矢田川の流路だった。 稲生は二つの川の合流点ということで、ここもたびたび水が溢れて被害を出したに違いない。八大龍王を祀ったのは、堤防の守り神としてであり、水難除けの願いを込めてだったのだろうと想像できる。 昭和に入って庄内通が作られ、庄内川橋も西に架け替えられた。水神堂がいつ誰によって建てられたかは分からない。最初からここにあったのか、後からここに移されたのか。
江戸期の書の稲生村の項を見ると、『尾張志』(1844年)にこうある。 「天神ノ社 神明社 天道社 水神ノ社 稲生村にあり」 天神ノ社が伊奴神社のことだろうか。神明社は稲生に現存しているものの、天道社はない。廃社になったか合祀されたか。 ここにある水神ノ社が今の水神堂のことだとすれば、江戸時代後期にはすでにあったことになる。 ただ、『寛文村々覚書』(1672年頃)や『尾張徇行記』(1822年)にはそれに類するような神社は載っていない。
八大龍王(はちだいりゅうおう)については他のところで何度か書いている。 天龍八部衆に属する龍族の竜王(難陀・跋難陀・娑迦羅・和修吉・徳叉伽・阿那婆達多・摩那斯・優鉢羅)で、釈迦の教えを受けて仏教の守護神となったとされる。 もともとは古代インドのナーガという半身半蛇だったのが中国を経由して日本に入ってきたときには竜神とされた。 日本では雨乞い、止雨の神、治水の神として各地で祀られた。 宮崎や奈良に多く、埼玉県の秩父にある秩父今宮神社(web)の八大龍王宮などはよく知られている。 名古屋でも境内社などでちょくちょく見かける。 ここから少し離れた安性寺(地図)では白獄龍神という龍神を祀っている。かつてはこのあたりにもたくさんの龍神祠があったに違いない。
敷地の一角に南無妙法蓮華経と彫られた石碑や妙法圓徳院實相日眞法師、妙道法尼、智主法尼などと彫られた墓碑のようなものもある。これらはどこか別のところから集めてきたものかもしれない。
例祭などが行われていれば年に何度かは堂の扉を開ける日があるのではないかと思う。その日にたまたま当たるなどということはまずなさそうだけど、関係者に話を聞けたら聞きたいと思う。
作成日 2018.6.13(最終更新日 2018.12.20)
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