名塚村にあった神社で、社伝によると飛鳥時代中後期の白鳳年中(672-686年)の創建という。 672年というと天智天皇の皇子の大友皇子と天智の弟とされる大海人皇子が戦った壬申の乱があった年だ。この戦は大海人皇子が勝利し、翌673年に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に都を置いて天武天皇として即位した。 686年は天武天皇が死去した年なので、この神社の創建は天武天皇時代ということになる。 しかし、そこまで古い時代にこの地に白山社を建てただろうかと考えると疑問だ。あるとすれば、創建以前の創祀かもしれないし、最初は白山社ではなかったかもしれない。
ひとつ頭に入れておかなければならないのは、名塚村はもともと庄内川の北にあったということだ。現在庄内緑地公園になっている場所に、真福寺村(新福寺村)、堀越村とともにあった。 1610年に名古屋城(web)が築城されることになったとき、城下の治水工事の一環として庄内川の堤防工事が行われた。1609年にまず左岸の堤防工事が行われ、続いて1614年に小田井村に堤が築かれた。その結果、名塚村、真福寺村、堀越村は庄内川の河川敷に閉じ込められる格好になったため、川の南に移るように命じられた。 稲生街道を挟んで東には稲生村があり、名塚村はその西に隣接し、少し飛んで西に真福寺村、堀越村という位置関係だった。堀越村は江戸時代に上堀越村と下堀越村に分かれた。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)のものを見ると、江戸時代のおおよその状況が想像できる。 670年-680年代のこのあたりがどんな状況だったかを想像するのは難しい。庄内川の流れも今とは違っていただろう。 矢田川と庄内川の合流地点という危ない土地に飛鳥時代から集落や神社を維持できたかと考えると怪しいような気もする。 ただ、庄内川左岸の稲生村の伊奴神社(地図)は、天武天皇2年の673年に天武天皇に稲を献上して創建されたという話があり、時代的にはそれと重なるので、まったくない話ではない。稲生の地名は稲が生まれるというところから来ているともいう。 ただ、それでも白山社というのはピンと来ない。違う神を祀る神社として創建されたものが中世以降に白山社になったという可能性もあるだろうか。
江戸期の書の名塚村の項を見るとそれぞれ以下のようになっている。これらは当然、村ごと引っ越した後のことをいっている。
『寛文村々覚書』(1672年頃) 「社壱ヶ所 白山権現 社内年貢地」
『尾張志』(1844年) 「白山社 神明社 天王社 名塚村にあり末社神明社あり」
『尾張徇行記』(1822年) 「白山社界内年貢地宗円寺界内ニアリ」 「社人山田豊後守書上ニ、白山神明社内四畝廿八歩御年貢地、村除、右社跡三畝前々除、コレハ庄内川内畠間ニアリ、慶長十九寅年引移ル」
江戸時代前期には白山権現だけがあり、後に神明社と天王社が増えたことが分かる。 白山社は江戸後期には西にある宗円寺(地図)と一体化していたようだ。宗円寺の創建は戦国時代中期の1529年というから、村の引っ越しのとき一緒に越してきたということだろう。 『西区の歴史』では明暦三年(1657年)勧請と書いているのだけど、確かな根拠があってのことなのか。
祭神として崇徳天皇が祀られているのは、大正10年(1921年)に金比羅社を合祀したためだ。どうして大物主が抜けて崇徳天皇だけを祀ることになったのかよく分からない。 現在白山社がある場所は、稲生合戦のときに名塚砦が築かれたところとされている。 名塚砦の跡地に白山社が建てられたというよりも、名塚村ごと引っ越してきたときに白山社を建てたのが名塚砦跡地だったと考えた方がよさそうだ。
稲生合戦が起きたのは1556年のことだった。これは信長のその後を決定づける大事な戦だった。 父親の信秀が死去したのが1552年もしくは1551年とされる(享年42)。 嫡男の信長が家督を継いだのは18歳もしくは19歳だった。 ここから数年間は尾張国の中で内戦が続くことになる。 1556年、信長の正室濃姫の父で後ろ盾でもあった美濃の斎藤道三が息子の義龍との戦いで戦死する。 日頃から信長の将来性に不安を抱いていた織田家の重臣たちは、これを好機と信長の弟の信行を担ぎ出して信長を討とうとしたのが稲生合戦だ。 反信長側には林秀貞(通勝)、林通具、柴田勝家らがつき、信長側には佐久間盛重、佐久間信盛、森可成、前田利家、丹羽長秀らがついた。 そのとき信長が佐久間盛重に命じて築かせたのが名塚砦だった。戦はこの砦の南の稲生ヶ原で行われることになった。 戦力の上では信行側に分があったものの、結果は信長側の勝利に終わる。 信行は母の土田御前の取りなしでいったんは許されるものの、翌1557年に再び謀反を企てたことを知られて殺害された。柴田勝家の密告によるものだといい、勝家はこれ以降信長に忠誠を誓い、織田家四天王のひとりとして数々の戦で活躍することになる。 土田御前は実の息子の信長を嫌っており、弟の信行をかわいがっていたという。 信長が尾張国を統一するのが1559年で、桶狭間の戦いで今川義元を破るのはその翌年1560年のことだ。 桶狭間の戦いはもちろんのるかそるかの大勝負だったわけだけど、稲生の戦いの結果次第ではその後の尾張国の展開が大きく変わっていたであろう大事な戦だった。
ここまで書いてきて今更なのだけど、名塚砦がどこにあったかは実はよく分かっていない。史料にもはっきり書かれておらず、白山神社があるあたりだっただろうということにすぎない。 地理的なことをいえば、稲生街道の元になった道は戦国時代にはすでにあったはずで、清洲城(地図)と那古野城(地図)を結んでいたと想像できる。稲生合戦当時、信長は清洲城を、信行は末森城(地図)を本拠とし、那古野城も押さえていた。信長方が南下し、信行方が北上し、両者がぶつかったのが稲生で、それを見越して信長は名塚に砦を築いている。 最初に書いたように、この当時まだ名塚村は庄内川の北にあった。稲生ヶ原というくらいだからここは集落もない原っぱだったのだろう。 矢田川は馬でも渡れたとして、庄内川はどうやって渡ったのか。稲生の渡しを舟で渡ったということだろうか。だとすれば、砦は庄内川の北か、もしくは矢田川と庄内川の中州でもよかったように思うのだけど、あえて庄内川の南にしたのはどんな戦略上の理由だったのだろう。広い場所の方が戦いやすいということだったのか。 白山神社の南250メートルほどのところに庚申塚がある。稲生合戦の死者を村人たちが葬った場所と伝わる。
古い時代の白山信仰がどういうものだったのか、今となってはよく分からない。 飛鳥時代に白山社を創建したという話は、守山区小幡の白山神社などでも出てくる。同じ守山区市場の白山神社は奈良時代初期の712年創建とする。 それらが本当に最初から白山社だったのかどうか、判断がつかない。守山区の白山社は古墳絡みなので、そのあたりも何か関係があるかもしれない。 『延喜式』神名帳に載っているいわゆる式内社の白山社がどれくらいあるのか把握していないのだけど、白山総本社の加賀国一宮の白山比咩神社(web)は載っている。名古屋市内の古い創建とされる白山社は一社も『延喜式』には載っていない。これをどう捉えるべきなのか。『延喜式』に載っているのは当時の官社のみで、載っていないからといってその時代になかったというわけではない。官社とされた神社とされなかった神社の基準もよく分からない。 このあたりの問題は今後に持ち越しとなる。
作成日 2018.6.14(最終更新日 2018.12.18)
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