港楽神社がある港楽は江戸時代後期の1800年に尾張藩が開発した熱田前新田の東に、尾張藩の地方勘定所が1837年に開発した熱田築地前新開があった場所に当たる。 後に尾張御用商人の伊藤次郎左衛門、内田忠蔵、関戸哲太郎が引き継いで作良新田(さくらしんでん)と改称した。一部に作良の町名が残る。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、当時のこのあたりはまだ水田地帯で、神社がある場所は新田の東部、堤防近くだったことが分かる。 神社が建てられたのは戦後のことだと思うけど、詳しいことは分からない。 社にかかっているのれんには五七桐紋が染め抜かれている。五七桐は天皇家の裏家紋であり、秀吉が下賜された家紋としてもよく知られているのだけど、この神社の場合は祭神を示しているのか、この神社の持ち主の家紋なのか。 五七桐という手がかりだけで祭神を言い当てるのは難しい。
港楽の町名は、楽しい港になるようにという願いから名づけられたという。 昭和12年(1937年)に開催された名古屋汎太平洋平和博覧会のメイン会場がここ港楽だった。 名古屋港開港30周年や名古屋の人口が100万人を突破したことなどを記念して行われた博覧会で、名古屋の中心部と名古屋港を結んで人の流れを作るというのも目的のひとつだったとされる。 博覧会にあわせて日比野と築地口をつなぐ市電も走らせた。現在の地下鉄名港線の前身といえる。 その頃はまだこのあたりは水田や葦が生い茂る沼地で、それ以外は何もないような寂しいところだったという。 北側には中川運河の補助運河だった港北運河があり、そこに架かる橋を平和橋といった。港北運河は昭和54年(1979年)から埋め立てられ、現在は港北公園になっている。平和橋だけはそのまま残った。 港楽の東の港陽にかつて港陽園という赤線地帯があった。戦後間もなくのことだ。 名古屋の遊廓というと中村遊廓がよく知られている。もともとは大須にあった旭楼が中村に移って中村遊廓と呼ばれるようになった。 それとは別に港区錦町にも稲永遊廓があり、それが空襲で壊滅的な被害を受けたため、代わりに港陽に赤線地帯ができた。最盛期は50軒近い店があったという。 昭和31年(1956年)の売春防止法を受け、昭和33年(1958年)以降は新世界商店街として再出発するも、商店はすっかりひなびてしまい、マンションなどが建ち並ぶ住宅地となっている。 学区の港楽小学校は昭和31年に西築地小学校の分校として作られた。 今の港陽を歩いても歓楽街だった頃の面影はほとんど残っていない。わずかにカフェーを改装したかもめアパートだけが往事の名残を伝えている。 昭和34年(1959年)の伊勢湾台風ではこの町も大きな被害を受けた。堤防沿いにあったシンボル的な二本の古い松も流されてしまった。
流造の社は屋根神様のようでもあるけど、ちゃんと境内地があり、鳥居も建っていて、社務所も併設されている。 社務所は公文式の塾もやっているらしいのだけど、敷地にビール・ケースが積み上がったり転がったりしている。地域の人たちの集会所としても使われているのかもしれない。 小さくても地区の大切な神社だろうから、これからも守っていって欲しいと思う。
作成日 2018.6.28(最終更新日 2019.7.18)
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