880メートルほど西に西八龍社(地図)があり、それに対して東八龍社と呼ばれている。 この二社はセットのようでもあり、そうでもないようでもある。西八龍社は平安中期の承平年間(931-938年)に創建されたともされる古い神社なのに対して、東八龍社はそれほど古くないと思われる。 『尾張志』(1840年)にある八龍社はおそらく西八龍社のことで、東八龍社は載っていない。神社本庁にも所属していないので『愛知縣神社名鑑』にもない。 現在は近くの味鋺神社(地図)の境外末社ということになっている。 祭神は宇麻志麻治命(ウマシマジ)と高龗神(タカオカミ)。高龗神は西八龍社と共通で、どちらも日乞いの神社という話が伝わっている。通常、龗神は水の神であり、龍神でもあるので、日乞いではないのだけど、その点で少し珍しい。宇麻志麻治命は味鋺神社の祭神でもある。 どちらが先でどちらが後付けなのかは判断がつかない。西八龍社が先にあって、その分社として東八龍社を建てたなら当初は高龗神だっただろうし、もともと味鋺神社に属していたのなら最初から宇麻志麻治命を祀ったとも考えられる。
味鋺(あじま)・味美(あじよし)の一帯は物部氏が拠点を置いた土地と考えられており、味鋺神社の社伝では属する一族のものをあわせて180基もの古墳があったとしている。 味鋺神社の祭神は物部の祖とされるウマシマジ(宇麻志麻治命)とその子・味饒田命(マジニギタ)とする。 味饒田は阿刀氏(あとうじ)の祖とされ、空海の母方は阿刀氏なので、空海は物部系ということになる。 味美に現存する前方後円墳の味美二子山古墳(96メートル)は5世紀末から6世紀初頭にかけて築造されたもので、ウマシマジが被葬者という言い伝えがある。ただ、年代的にはまったく合わないので、マジニキタでもなく、その子孫の首長だろう。 熱田の断夫山古墳との共通点が多いことから、熱田の尾張氏と味鋺・味美の物部氏は何らかの形で融合したか統合した可能性が高い。 味鋺・味美地区にいつ頃物部の一族が移り住んだか、という点が問題となる。
ウマシマジはニギハヤヒ(饒速日命/邇藝速日命)の子とされる。 物部側の書である『先代旧事本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とし、尾張氏の祖・天火明命(アメノホアカリ)と同一とする。 『古事記』では神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコ/神武天皇)が東征して大和に入ろうとしたところ、すでにニギハヤヒが大和豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の登美夜須毘売(トミヤスビメ)と結婚してウマシマジをもうけ、大和を支配していたと書く。 カムヤマトイハレビコはナガスネヒコの抵抗に遭い、大和に入れず、ニギハヤヒがナガスネヒコを殺してカムヤマトイハレビコを助けたという。 『日本書紀』はアマテラスから十種の神宝を授かって天磐船に乗り、河内国(大阪府交野市)に天降って、その後大和に移ったとする。それはニニギノミコトが降臨する前のことだ。 ニギハヤヒが何者で、どこから大和に移ったのかというのが謎なのだけど、神話によれば物部の祖神ということになるから、物部氏が祀る神であっても不自然ではない。しかし、ニギハヤヒを主祭神として祀る神社は少なく、名古屋や近郊にはおそらくないんじゃないかと思う。物部関係の神社で祀られるのはたいていがウマシマジだ。 島根県大田市の物部神社(web)の社伝によると、ウマシマジは神武東征に異母弟の天之香山命(アマノカグヤマ)と共に従い、尾張、美濃、越国を平定し、アマノカグヤマを彌彦神社(web/新潟県西蒲原郡)に残して、自らは播磨、丹波を経て石見国(島根県西部)に移り、そこで没して物部神社に祀られたという。 名古屋の千種あたりはかつて物部郷と呼ばれており(930年『和名類聚抄』にもある)、車道の物部神社には神武天皇が尾張を平定したときに大石を要石として祀ったのが始まりという話が伝わっている。 物部というと、蘇我馬子と仏教導入で争って敗れた物部守屋がよく知られている。丁未の乱(ていびのらん)と呼ばれる戦で、蘇我馬子や厩戸皇子(少年時代の聖徳太子)などの連合軍に敗れて滅ぼされた。587年のことで、このときの物部守屋の本拠地は河内国(大阪府八尾市)だった。 これで物部は滅んだと思っている人も多いかもしれないけどそんなことはなく、たとえば物部(石上)麻呂などは壬申の乱(672年)で大友皇子の側について戦いながら大海人皇子(天武天皇)に登用されて左大臣、太政大臣まで上り詰めている。 ただし、710年の平城京遷都の際に旧都である藤原京の留守役に命じられて、その後、物部氏は表舞台から遠ざかることになる。『古事記』ができるのはその2年後の712年で、『日本書紀』の完成は720年だ。その頃には世の中は藤原一族のものになっていた。 物部というと石上神宮(web)のイメージも強い。 カムヤマトイハレビコ(神武天皇)が大和入りでナガスネヒコに苦戦しているとき、アマテラスの命でタケミカヅチ(武甕槌)が下した布都御魂剣(フツミタマ)を祀る神社だ。 ウマシマジが宮中で祀っていたものを崇神天皇が物部氏の伊香色雄命(イカシコオ)に命じて奈良県天理市に祀らせたのが始まりとしている。
初代神武天皇と第10代崇神天皇は同一で、ヤマト王朝を築いたのは崇神天皇とする説がある。3世紀末から4世紀初めあたりということになるだろうか。卑弥呼が邪馬台国を治めたのは3世紀前半から中頃とされる。 神武=崇神天皇が大和入りしたのが4世紀前半とするなら、ニギハヤヒはその時代の人物で、ウマシマジはもう少し後ということになる。 ウマシマジが没したのは石見国かもしれないけど、ウマシマジの古墳とされるものは味美二子山古墳などいくつもあってはっきりしない。 神武(崇神)に従って尾張国にウマシマジがやって来て、その一族の一部がここに住みついて子孫が繁栄したということもなくはない。味鋺・味美地区の物部の痕跡は色濃く、尾張氏が尾張国を統一したにもかかわらず物部色は打ち消せなかった。 味美二子山古墳と断夫山古墳がつながっているとするならば、5世紀末あたりに尾張氏と物部氏の統合があったかもしれない。それは尾張氏が一方的に物部氏を攻め滅ばしたといったことではなかったはずだ。 味鋺神社の創建がいつだったのかは分からない。927年の『延喜式』神名帳に載っているとはいえ、5、6世紀から10世紀までは間がありすぎて推測するのも難しい。 ただ、創祀ということでいえば、5世紀にはたくさんの古墳を築く集団がこの地に暮らしていたのだから、遅くともその頃から始まっていたと考えられそうだ。 東西の八龍神社と物部一族が関係あるかないかは分からない。
東八龍神社からは話が大きく脱線してしまったけど、物部とウマシマジについては今後もどこかで書いていきたいと思っている。
東八龍社は味鋺神社の御旅所としての役割もあり、味鋺神社の例祭のときに神輿渡御が行われていた。現在も行われているのだろうか。
作成日 2018.7.24(最終更新日 2019.1.12)
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