錦神社(地図)とは130メートルほどしか離れてないのだけど、奥まった場所の角地にあって地図上の表記もないので、その存在に気づきづらい。夏ということもあって、入り口から見るとジャングル状態になっている。神社好きでなければ好き好んで立ち入りたい神社ではないかもしれない。 しかし、神社好きにはかえってたまらない。ここはなんかものものしい空気感を漂わせてるなと興味をそそられる。
鳥居の額に天王明神とある。 天王というからには牛頭天王を祀っていたのだろうと思う。今は須佐之男に変えているか、もしくはそのまま牛頭天王を祀るとしているのか。 明治の神仏分離令で、それまで牛頭天王を祀っていた天王社は須佐之男を祀る須佐之男社や津島社に変えられた。明神号も原則禁止された。 それでも今なお天王社を称しているところは少なくない。特に神社本庁に加盟していない小さな神社はそうだ。 ただ、天王明神と称しているところはあまりないのではないか。私は初めて見た。
明神(みょうじん)は『延喜式』(927年)で定められた「名神」が転化したと考えられており、平安時代以降に使われるようになった。 その後、一般化して、なんでもかんでも明神と呼ぶようになっていく。神道の吉田家が乱発したのもその一因とされる。 よく知られるのが神田明神や春日大明神、鹿島大明神などで、神に対する尊称でもあり、親しみを込めた言い方でもあった。熱田大明神や伊勢大明神などと呼ばれた時代もあった。 本地垂迹説が流行ると、明神の他に権現もよく使われるようになる。神は仏が仮の姿で現れたものという考え方だ。 秀吉は死んで豊国大明神となり、家康は明神にするか権現にするかでもめて、結局東照大権現となった。 明治の神仏分離令(神仏判然令)で明神や権現は使わないようにという命が出たのは、江戸時代までには神仏習合の仏教側の用語と認識されていたためだ。 ただ、今でも神田神社などは神田明神といった方が通りがいいように、一部通称として使われている。
この神社に関しての情報はほぼないため、誰がいつ建てたのか詳しいことは分からない。 ただ、鳥居と石柱の裏にちょっとした手がかりがある。 鳥居の裏には「昭和六十一年三月吉日建立 中川区尾頭橋 平松義一 文尾」とある。 石柱の裏には「昭和五十年三月 港区錦町一丁目□□ 中川区八幡町六(?)丁目□□」と彫られている。 ここ錦町は明治末に熱田遊廓を移した稲永遊廓があったところだ。 中川区八幡町というと尾頭橋近くの花街があったところで、戦後は赤線地帯になって八幡園と呼ばれていた。 そこから推理すると、この神社は稲永遊廓と八幡園の関係者が祀ったのが始まりではないかと思いつく。ただ、鳥居や石柱の日付が昭和50年や昭和61年と新しいから、遊郭とは無関係かもしれない。
鳥居をくぐって正面右手に神明造の社があり、向かって左手に赤く塗られたお堂がある。入り口近くには別の神明造の社もある。 それぞれに供えられた榊や花は新しく、供え物もしてある。日常的にお世話をしている人がいるようだ。 これらの社やお堂は他のところにあったものを集めたとも考えられる。 稲永遊廓があった頃は北西の角地近くに当たる。たまたまかもしれないけど、あえてここに置いた可能性もある。 この神社は、稲永遊廓の忘れ形見といえるかもしれない。
【追記】 2021.4.7
平松さまより情報をいただいたので許可を得て以下に掲載させていただきます。
伊勢湾台風2年前に火力発電所取り壊しのため、日発(中部電力)内の一州町(現カインツ)氏神様を移設したものです。 発電所開設以来の歴史とおもわれます。 境内左側の祠は荒子川観世音菩薩で、由来は近隣の荒子川に流れ着いた木札を祀っております。 境内入り口の祠は豊博龍神で平成8年頃に合祀したものです。由来は熱田区六番で事業を営み財をなした一族の夫婦に不幸が起こり、地元由来の龍神が取り残されたもので、縁あって合祀したものです。ご利益はギャンブルに強いという声を聞きます。 また遊郭時代には、娼妓にとりついた狐狸を抜き、封じ込めたとのいわれがあります。 さらに戦時中、近くに軍事工場、飛行場があったため嵐のように1トン爆弾攻撃を受けたもののことごとくそれ、発電所は無傷であったと伝えられます。
ここでいう発電所というのは名港火力発電所のことだ。 電力の需要増加に伴い、東邦電力、日本電力、大同電力、矢作水力、揖斐川電気、中部電力(岡崎)、合同電気が共同出資して中部共同火力発電株式会社を設立し、昭和14年(1939年)に名港火力発電所は運転が開始された(その後、数度の停止と再開を経て1982年(昭和57年)まで運行されていた)。 神社がある稲永新田は江戸時代後期の文政3年(1820年)に粟田兵部が開発した干拓新田だ。 そこへ明治45年(1912年)に突如、遊郭ができた。熱田遊廓を移したもので、稲永遊郭と呼ばれていた(錦町の町名はそのとき名付けられた)。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)では田んぼしかなかったところに1920年(大正9年)の地図では町割りと建物が描かれている。 この遊郭のはずれあたりに神社は位置しているから、稲永遊郭の関係者によって祀られたものではないかと推測したのだけど違ったようだ。 名港火力発電所の関係者が祀ったとなると、早くても昭和14年(1939年)以降ということになるだろうか。 名港火力発電所があった一州町(いっしゅうちょう)は町名として今も残っている。現在はカインズホーム名古屋みなと(地図)があるあたりだ。 このあたりは大正時代中頃には荒れ地になっていて、そこに飛行場ができ、昭和には競馬場となり、競馬場が閉鎖となった場所に名港火力発電所が建てられた。 一州町(昭和15年成立)は、運営会社の初代社長だった松永安左衛門の雅号から名付けられたという。 ということは、最初にこの天王明神を祀ったのは、名港火力発電所、もしくは松永安左衛門ということだろうか。 しかし、戦前とはいえ、天王明神という神号で祀ることが許されたのだろうかという疑問がないではない。企業内神社だから大丈夫だったのか。 一州町の氏神だったそうだけど、当時は従業員と関係者以外に一州町に住む人がいたのかどうか(現在の住人は0人となっている)。 現在地に移されたのは伊勢湾台風の2年前だそうだから、昭和32年(1957年)ということになる。
この神社に関してはほとんど情報がなかったから経緯を教えていただけてありがたかった。 移されて一緒に祀られている豊博龍神が稲永遊郭と関係のある社ということで、そのことも知れてよかった。 この場を借りて平松さまにはあらためてお礼申し上げます。
作成日 2018.8.3(最終更新日 2021.4.7)
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