若宮町の住宅地にある小規模な神社。 外観からはどんな神を祀る何神社なのかは分からなかった。 手がかりになるようなものといえば、木製の明神系鳥居と内削ぎ千木の神明造の社くらいだけど、そこから何系の神社かを言い当てることは難しい。 皇紀二千六百年の石柱があるから、昭和15年(1940年)にはあったことは分かる。 参拝を終えて一通り見て、写真も撮って帰りかけたときに、向かいの家から人が出てきたので訊ねてみたところ、近くの若宮八幡社の分社だと教えていただいた。 若宮八幡社というと中区栄にある名古屋総鎮守の若宮八幡社のことが思い浮かんだのだけど、考えてみたら少し南の西米野町にも若宮八幡社(地図)があることを思い出した。どうやらそちらのことのようだった。 なるほど、そういうこともあるのかと納得した。なので、神社名を一応、若宮社としておいた。ここは若宮町で、若宮町の由来は西米野の若宮八幡社から来ているから、いずれにしても若宮社としておけば間違いではないだろう。若宮町の町内神社でも若宮神社になる。 熱田・秋葉・津島社を祀る屋根神様という話もあるのだけど、私としては近所の方を信じて若宮社としたい。
若宮町は昭和15年(1940年)に米野町字中田・字西中田・字若宮裏・字戸崎、則武町字村前・字五反田・字西廻の各一部により成立した。 今昔マップで明治中頃(1888-1898年)の地図を見ると、このあたりはその頃でもまだ田んぼの真ん中だったことが分かる。則武村からも笈瀬村からもだいぶ離れている。 1920年(大正9年)には道路ができてやや町らしくはなったものの、相変わらず田んぼ地帯であることに変わりはない。 1930年代になると区画整理されて今の町割りが完成している。田んぼはほとんど姿を消したようだ。ただ、家はまだ少ない。 戦前から戦後にかけてすっかり住宅地となり、家も多く建った。 1960年代には今と変わらないくらいの町になっている。
西米野の若宮八幡社から分社したとして、それがいつ頃だったのかといえば、町の変遷から考えて住宅地になった昭和以降だろう。もう少し早ければ大正時代か明治の終わりという可能性もあるか。 もしかすると皇紀二千六百年の昭和15年に建てられたのかもしれない。日中戦争が始まったのが昭和12年(1932年)で、太平洋戦争へと突入していくのが昭和16年(1941年)だから、町内から出征していく兵士を見送るために神社を建てたとも考えられる。そういうふうに建てられた神社は少なくない。 若宮というのは不慮の死を遂げた人間や恨みを抱いて死んでいった人間の霊を鎮めるために建てられた神社をいった。ここが実際に若宮社だとすれば、町内から出征していって戦死した若者を祀るのにふさわしいと言える。 できればもう少し詳しい創建のいきさつなども聞きたいところだ。
【追記】 2021.6.7
この小社は熱田・秋葉・津島社を祀る屋根神ということを教えていただいた。 ただ、近所の方がまったく間違ったことを言うとも思えず、もともと屋根神だったところに若宮八幡社からも勧請して若宮神もあわせて祀った可能性は考えられる。 千種区の小社の多くが高牟神社からも勧請して一緒に祀った例があるように、そういう形の合祀はけっこうある。 名称を若宮社とするのは少し問題かもしれないので、名称だけは小社(若宮町)と変更した。
作成日 2018.9.3(最終更新日 2021.6.7)
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