若宮大通久屋交差点と東別院駅とを結ぶ前津通り沿いにある小さな神社。 住所でいうと大須3丁目なのだけど、感覚的には矢場町に近い。すぐ南は上前津だ。 地理的なことをいうと、ここは熱田台地のちょうど中間あたりになる。その中央部やや東寄りだ。 前津という地名が示すように、かつてこのあたりまで海が深く入り込んでおり、入り江になっていた。 熱田台地の東側を精進川が流れ、熱田社(熱田神宮/web)の東を通って伊勢湾に注ぎ込んでいた。名古屋城(web)ができる前の話だ。 名古屋城ができるとこのあたりまで城下町となったのだけど、明治になっても熱田台地の東側は前津小林村で田んぼが広がっていた。 明治以降、精進川はは人工の新堀川となり、大須の東もすっかり都会になった。かつての面影はまったく残っていない。 今昔マップで変遷をたどるとそのあたりのことが見てとれる。
『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)はこの神社についてこう書いている。 「石神社八幡社合殿 石神社、八幡社合殿は中区三輪町に在り、境内十坪(中略)、小林城主牧與三右衛門長清勧請す、明治三年八月改造遷宮す、今無格社に列す、祭神は布都御魂神、応神天皇 但応神天皇は後に合祀せしものなり、境内神社に秋葉社の一所あり、例祭は九月十九日なり、徳川時代は安井氏代々神職を奉仕し、現今山田氏兼任す」 勧請したのは前津小林城の牧長清といっているけど本当だろうか。八幡社を後から合祀したというから、牧長清が勧請したのは石神社ということになる。 牧長清の名前は大須の三輪神社や大須の春日社、大須の富士浅間神社のところでも出てくる。いずれも牧長清が勧請したとか再興したとかいう話ではっきりしない。ただ、牧長清が何らかの形で関わっていた可能性はある。 牧長清は斯波高経の同系統で、尾張守護・斯波氏の一族に当たる。戦国時代になると斯波氏の力が衰え、守護代だった織田家が頭角を現したことで牧氏は織田家に仕えることになった。 牧長清の父・長義は信秀(信長の父)の妹を妻とし、長清は信長の妹を正室にしたことで織田家との縁が深くなった。 1548年頃に長義が前津小林城を築いて川村北城(守山区)からこの地に移ってきたとされる。 牧長清の生年は不明ながら没年は1570年なので、前津小林村の神社を建てたか再建したかしたのは、おそらく長義の没後(生没年不明)から1570年までの間ということになる。 それにしても、三輪社、春日社、富士浅間社、石神社と、脈絡がない。すべてが牧長清によるものとは考えにくいのだけどどうなんだろう。 仏教に帰依して諸国の名山に登ったという話があり、富士山にも7回登ると決めて3回は登ったものの、体力が衰えて無理になったので富士塚を築いたというのは本当のようだ。浅間社をそのとき勧請したというのは充分に考えられる。 問題は本当に石神社を牧長清が建てたのかということだ。
『名古屋市史 社寺編』は、祭神を布都御魂神としている。 布都御魂(ふつのみたま)は一般的に霊剣・布都御魂剣に宿る神とされている。草薙剣に宿る熱田大神のようなものだ。 天孫降臨に先立って出雲に国譲りを迫るべく建御雷神(タケミカヅチ)が地上に遣わされ、布都御魂剣を使って葦原中国(地上)を平定した。 再び布都御魂剣が登場するのは神武東征のときだ。大和入りしようとした神武は大和の豪族、ナガスネヒコの抵抗に遭い逃走。熊野山中で弱っていたところ、高倉下(タカクラジ)によって布都御魂剣がもたらされ、神武は大和入りを果たすことができた。 物部氏の祖である宇摩志麻治命(ウマシマジ)が宮中で祀っていたものを、物部氏の後裔である伊香色雄命(イカガシコオ)が外に出して祀ったのが石上神宮(web)となった。 何故、その布都御魂を尾張のこの地で祀ったのか? 布都御魂神を祀ったのがどうして石神なのか? 気になるのは、洲嵜神社(すざきじんじゃ/中区栄)との関係だ。 洲嵜神社がある場所は元々海に突き出した岬で、古くからの土地神を石神として祀っていたのが始まりとされている。その石神の祭神を布都御魂命としているのも共通している。 関係があるのかもしれないしないのかもしれないけど、心のざわざわ感を覚える。
こんな道ばたの小さな神社についてあれこれ思いを巡らせる人は少ないだろうし、大部分の人にとってどうでもいいことなのだろうけど、気にし出すと気になるもので、今後も調査と考察を続けたいと思う。思いがけずどこか別の場所や神社につながることもあるのではないかと期待している。
作成日 2018.9.5(最終更新日 2019.3.14)
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