隣の建物の入り口に「御嶽教」・「神徳教会本部」という表札があって、この建物に隣接しているので、この神徳教会が祀る稲荷社のようだ。稲荷社の名前の神徳は神徳教会から来ているに違いない。 この建物はマンションかアパートかという外観なのだけど、屋根に千木と鰹木が乗っている。これ自体が全部御嶽教神徳教会のものなんだろうか。二階建てで部屋数がけっこうある。信者さんが暮らしているのかもしれない。もしくは、神徳教会が経営するアパートなのか。 御嶽教会が稲荷社を祀る例は、同じ中村区の奥常稲荷社がそうだ。ただし、あちらは稲荷も御嶽大神も龍神も祀る複合的な神社で、こちらは稲荷社のみという違いがある。御嶽教で稲荷を祀るというのはよくあることなのだろうか。 稲荷社の赤鳥居に神徳稲荷大神の額があり、赤の幟も神徳稲荷大神と染め抜かれている。 社は外削ぎ千木の流造のものだ。キツネ像などは置かれていない。 御嶽大神を祀っている形跡は見られない。御嶽大神は本部内で祀っているということなのだろう。 入り口に地蔵の石仏がある。それほど古いものではない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、ここは名古屋城下からも、笈瀬村の集落からも離れた田んぼの中だったことが分かる。 明治末から大正時代にかけて東の集落が西に延びる形で発展した。このあたりにも家が増えた。 昭和に入ると町割りができた。ただ、まだ田んぼは多く残っていたようだ。 黄金通(おうごんとおり)の地名は、昭和14年(1939年)に米野町の一部より成立したもので、稲がよく育って一面黄金色だったことから来ている。 戦前から戦後にかけての発展はそれほど急速ではなかったようで、町として発展するのは1960年代以降のことだ。
分かったのはこれくらいだ。 隣の家を訪ねて話を伺えばあれこれ教えていただけるかもしれないけど、そこまでの強いジャーナリズム精神は発揮できなかった。 神徳教会がいつできて、いつこの建物が建ったかが分かれば神徳稲荷の創建についても分かる。本部の建物は新しいからわりと最近ではないかと思うけどどうだろう。
作成日 2018.9.6(最終更新日 2019.5.15)
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