現在の新茶屋は江戸時代に干拓によって作られた茶屋後新田(ちゃやのちしんでん)だったところに当たる。 茶屋後新田は、尾張茶屋家二代・茶屋長以によって1677年(延宝5年)に開発され、茶屋家が借金を重ねたことで最終的には名古屋の関戸家のものになった。 茶屋家や茶屋後新田については八幡社(東茶屋)のページや神明社(茶屋後)のページに書いた。
この社があるのは、茶屋後新田の東南で、東を流れる戸田川右岸沿いに何軒か家が並ぶ集落があった場所だ。最初からここにあったとは思えないけど、江戸時代の集落にあった社という可能性はある。 何の神を祀る社なのかは分からない。手がかりらしい手がかりは見つけられなかった。 敷地内に火の見櫓があることからすると、火防せの神、カグツチを祀る秋葉社かもしれない。
隣のお堂は観音堂だ。中を覗いてみると、観音像があり、南無観世音大菩薩と書かれた提灯が下がっている。 観音像には寛政二年と刻んであるように見える。寛政二年は江戸時代中後期の1790年だ。 この観音像についてはその時代から茶屋後新田に祀られていたと考えてよさそうだ。 社は観音堂とセットなのか、まったく別なのかは判断がつかない。 観音像の後ろに掛けられている幕を見ると、昭和57年の年と寄進者の名前が確認できる。紋の一部が見えているのだけど見たことがない紋なので分からない。 額に入った賞状が何か手がかりになるかと思ったら、第二回インディアカ大会で、中堤の混合チームが優勝したというもので、全然関係がなかった。昭和57年とある。 ところでインディアカって何だろう? 気になったのでちょっと調べてみた。
なんでも1936年にブラジルのリオデジャネイロに滞在していたドイツ人体育教師のカールハンス・クローンという人が、コパカバーナビーチを散歩中にブラジル人がやっていたペテカというスポーツを見て、これは面白いと感じてドイツに持ち帰ったのが始まりなんだとか。 ペテカって何だ? インディアカ以前にペテカが謎だ。 ルーツを辿ると、ボリビアのインディアンがトウモロコシの葉を束ねたものを手で打ち合って遊んでいたものをブラジルでスポーツにしたのがペテカらしい。 インディアーナ・ペテカを略してインディアカと名づけたのもカールハンス・クローンだった。 バドミントンの羽みたいなものを素手で打ち合う競技で、何人制かは知らないのだけどチーム制で、ネットを挟んだコートで2チームが対戦する。素手でやる団体バドミントンのようなもの、といえばイメージが沸くだろうか。 しかし、昭和57年当時に、そんな前衛的なスポーツ大会がここ港区新茶屋で行われていたということが驚きだ。私など、今日の今日までインディアカなど見たことも聞いたこともなかった。 もうひとつある賞状も何かの大会で子供たちが準優勝したもののようだけど、詳しくは読み取れなかった。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、戸田川堤防に沿って家が数軒並んでいるのが分かる。それ以外は田んぼが広がっている。 もともとこの土地は湿地で水はけが悪く、何度も水没して収穫がままらなかった田んぼだった。明治になって関戸家が排水工事などを行って収穫量が上がった。 大正、昭和、戦中まで集落の状況は変わらない。田んぼもそのままで、民家もほとんど増えていない。 戦後の1947年も、民家が増えた様子はなく、変わった点といえば田んぼの中に道路が通ったことくらいだ。 1960年代になって、区画整理されたものの、田んぼは変わらずそのままある。民家もさほど増えていない。 1976-1980年の地図で突然、鳥居マークが現れる。これは何だ? 小さな社がある場所のやや東側に描かれている。まさかこの社のこととは思えないのだけど、今は別の場所に移された神社だろうか。 1984-1989年に、鳥居マークが現在社がある場所に移った。 1992-1996年の地図では、鳥居マークが卍マークに変わった。これが観音堂のことなのかどうかは分からない。 新茶屋のこのあたりの町並みが今のようになったのは1960年から1970年代にかけてで、新茶屋川公園や名南変電所もその頃できている。
新茶屋の由来は、茶屋新田に対して茶屋後新田が新茶屋と呼ばれていたことによる。 町名としては新しく、平成2年(1990年)に南陽町茶屋新田と茶屋後新田の各一部により成立した。
現在もこのあたりは民家が少なく、田んぼが広がっている。田んぼにするには向かなかった土地の田んぼが最後まで残ったということになる。いい土地からどんどん宅地化されたから当然といえばそうかもしれない。 茶屋家から田んぼを引き継いだ関戸家は農地解放のときに格安で小作人に田んぼを譲った。そういうこともあって、このあたりの農家たちは田んぼを売らずに大事にしたということが言えるかもしれない。
作成日 2018.10.1(最終更新日 2019.8.3)
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