明野町の「東部どんぐりひろば」の中にある社。 明野町にはもうひとつ、どんぐりひろばがあって、そちらにも社があり、明野西どんぐりひろば(地図)という名前がついている。区別するためにこちらを小社(明野町15)、明野西を小社(明野町9)としておく。 後ろの建物のくぼみにこそっと上手く納まって鎮座している。まるで社をここに置くためにくぼみを作ったみたいに見えるけど、きっとそんなことはない。たまたまおあつらえ向きの場所があったのでここにしたのだろう。 地図ではアルザンビルとなっているけど、この社との関係は不明だ。 屋根も付けてもらって雨ざらしにはなっていない。社はやや古びているものの、それほど古いものではなさそうだ。台座は新しいので最近交換しただろうか。 こういった小さな社には珍しく小振りの狛犬(と獅子)が置かれている。これだけでもだいぶ雰囲気が出る。 榊は新鮮なので日常的にお世話をしている人がいるようだ。 何の神を祀る社で、どういう経緯でここに祀られることになったかなど、詳しいことは分からない。秋葉社なのか、屋根神様パターンの熱田・秋葉・津島なのか、たぶんどちらかだとは思うのだけど。
明野町(あけのちょう)は昭和14年(1939年)に中川区野立町の一部より成立した。ここは熱田区の北端で中川区八熊と隣接している。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、社があるあたりは田んぼしかなかったことが分かる。空白地が広がっているけどどういう状況だったのかちょっと分からない。 西を百曲街道が南北に通り、その道の向こうに八幡村の野立集落がある。東は堀川で、堀川右岸にも少し家などが建っている。 1920年(大正9年)の地図では今名古屋市中央卸売市場がある場所に溜め池が確認できる。おそらく貯木場だろう。 1932年(昭和7年)には突然町になっていて驚く。 昭和のはじめ頃は瓶屋橋通(かめやばしどおり)がこのあたりで最も賑やかな商店街だったという。今は当時の面影は残っていない。 1937-1938年までには南の千代田町にびっしり家が建ち並んだ。 1947年の地図では空白地が目立つ。このあたりも空襲の被害が大きかったようだ。 それでも1960年代には復興して完全な住宅地になった。
こういった経緯を踏まえると、この社が最初に祀られたのは昭和初期くらいではないかと予想できる。さかのぼっても大正時代までだろうし、新しければ戦後ということになるだろう。 個人宅で祀ったものなのか、町内で祀ったものかは分からないけど、現状は明野町の町内社のような位置づけになっているのではないかと思う。
作成日 2018.10.11(最終更新日 2019.9.18)
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