氷上姉子神社(地図)に関係のある神を祀り、石神は古墳の石室に使われた石というのがこの神社の正体のようだ。 大高エリアの主な神社には大高歴史の会というグループによる説明書きがあってありがたい。 それによると、氷上姉子神社に関係する神を祀っているという言い伝えがあるものの、何の神か分からなくなっていたので、昭和26年(1951年)に住人が御嶽講の先達に尋ねてみたところ、この地の神はおよそ1500年前の石神と白龍であるという見立てをいただいたため、翌昭和27年にこの場所に社殿を建てて祀り、石神白龍大王社と名づけたとのことだ。 古くはオシャクジ(石神)とも呼ばれ、その石は古墳の石室に使われた石らしいというのは他から得た情報なのだけど、そのあたりを少し整理する必要がある。
平成5年(1993年)にもともと石神の石があった近辺を名古屋市教育委員会文化課が発掘調査をしたところ、弥生時代の住居跡や土師器片、火葬された骨、周濠、炉跡などが見つかった。 石神の石については古墳の横穴式石室の奥壁だったのではないかとしている。その場所で一緒に見つかった須恵器からすると古墳は6世紀後半のものと考えられるという。 同じ場所から見つかった遺物が同時代のものとは限らず、長い年月にわたって人の暮らしや痕跡が積み重なっている場合も少なくない。石神遺跡と名づけられたこの場所もそうで、弥生時代の住居跡がいつのものなのかは正確に分からないのだろうけど、古墳が6世紀後半とすれば人が暮らしていたのはその数百年前ということになる。たとえば2世紀とか1世紀とかだ。 古墳の石室の石を石神として祀ったのは、当然6世紀後半以降ということになる。それがいつだったのかを推測するのは難しい。 更に古墳の被葬者と石神として祀られる神が同一なのか否かを判断することもできない。祀られているのが氷上姉子神社に関係する神というのであれば尾張氏の一族とも考えられるし、それが被葬者である可能性もある。 氷上姉子神社については氷上姉子神社のページに書いたのでここでは繰り返さないけど、ミヤズヒメが火上山の邸でヤマトタケルが残した草薙剣を祀り、自分が年老いたので熱田にあらたに社を作って草薙剣を祀り(熱田社)、ミヤズヒメ亡き後、邸があった場所にミヤズヒメを祀ったのが氷上姉子神社ということになっている。 熱田社(熱田神宮)の創祀は113年、氷上姉子神社の創祀は195年とする。 この神社の大元が氷上姉子神社の関係神を祀る社だったとして、その創祀年代がいつだったのかは、やはりなんともいえない。
石神白龍大王社は東姥神と呼ばれる小山の麓にあり、標高20mほどの山頂付近には火高の地主神・火上老婆霊(ひがみうばのみたま)を祀るとされる朝苧社があり、それはミヤズヒメの母神だという。 東姥神の西は谷になっていて、その西に標高30mほどの火上山がある。この火上山の山頂付近にもともと氷上姉子神社があり、今は東側の麓に移されている(690年に遷座)。 火上山の西には峰続きで齋山があり、山頂には齋山古墳(齋山稲荷社)がある。これは4世紀のものではないかとされている。 その西の名和古墳群(3基の円墳)は6世紀後半と考えられており、その西のカブト山古墳は4世紀末とされる。 石神の塚石は幡豆(羽豆)から切り出されて運ばれたものということが分かっている。その幡豆はミヤズヒメの兄でヤマトタケルの東征のとき副将軍として水軍を率いた建稲種命(タケイナダネ)とのゆかりが深い場所だ。 火高や熱田にタケイナダネの影は薄く、知多半島の突端の師崎を本拠にしていたという話がある。実際、師崎の羽豆岬にタケイナダネを祀る羽豆神社(地図)がある。 ヤマトタケルの東征に従ったタケイナダネは帰路の途中、駿河の海に落ちて水死し、遺体が宮崎の浜(吉良町)に流れ着いたのでそれを祀ったのが幡頭神社(地図)とされる。 幡豆、羽豆、幡頭はタケイナダネが水軍の「幡頭」をつとめたことから来ているともいう。
これらの情報を目の前に並べられて、さあ、氷上姉子神社と関係社の謎解きができるか? と問われているのだけど、それは同時に尾張氏はどこから来た何者なのかという根本的な問いかけでもあり、テーマとして大きすぎるのでここでは扱いきれない。 このあたりのことはいったん保留として、石神白龍大王社に話を戻したい。
石神についてはとりあえずそういうこととして、白龍とは何かだけど、古くからの言い伝えで、塚の土や木を触ると祟りがあるとされ、村人たちが白龍を祀って鎮めたという。 つまりは、石神と白龍はもともと別の信仰対象で、御嶽講の人の見立てで合体したということのようだ。
今昔マップでこのあたりの土地の変遷を見てみると、険しい丘陵地帯で民家が建つのは1970年代に入ってからだったようだ。 明治中頃に建っていたのは春江院くらいだ。戦国時代の1556年、大高城城主の水野大膳が父である水野和泉守の菩提を弔うために建てた寺とされる。 現在は起伏の激しい細い道沿いにけっこう家が建っている。
結局のところ、石神の古墳の被葬者も、石神に祀られている神の正体も分からずじまいだ。 ただ、考えるための材料はある程度提供できたと思うので、謎解きは後に続く人に委ねたい。
作成日 2018.10.16(最終更新日 2019.4.3)
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