大高村にあった天王社で、明治以降は津島社と名を変えて今に到っている。 同じ大高町の寅新田にある津島社は、込高新田(こみだかしんでん)の氏神だった天王社だ。同じ大高町内にあるので、向こうを寅新田の津島社、こちらを北大高畑の津島社として区別している。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に天王社大高村にあり、と。昔から北大高畑の産土神として崇敬深く、明治6年10月据置公許となる」
『尾張志』(1844年)の大高村の項はこうなっている。 「八幡ノ社 志水氏の屋敷内にあり 八幡ノ社 天王ノ社 此三社も大高村にあり」 志水家の屋敷内にある八幡ノ社が今の城山八幡社で、もう一社の八幡ノ社が町屋川の八幡社に当たる。天王ノ社とあるのが北大高畑の津島社ということになる。
『尾張徇行記』(1822年)はもう少し詳しい。 「神主朝日主殿書上ニ天王社内二反五畝十歩御除地、此境内ニ天神社アリ、天王ハ勧請年紀不伝、天神ハ延宝四辰年勧請ナリ」 社内は除地(年貢などを免除された土地)で、境内社の天神は延宝4年(1676年)の勧請で、天王社については勧請年は伝わっていないとしている。 天神は現在、天満宮として本社の隣に鎮座している。
大高歴史の会の説明書きによると、創建は不明ながら江戸時代初期ではないかとし、明治までは天王さんと呼ばれていたという。 毎年7月に祇園祭が行われ、前夜には提灯祭りがあるということと、10月の大高まつりでは山車が町内を巡行するとある。 今年2018年は10月7日(日)だったようなので、10月の第1日曜日かもしれない。 山車を曳いて町内を回り、氷上姉子神社へも行くというから、氷上姉子神社の例祭とも絡んでいるだろうか。
今昔マップで変遷を見てみると、明治中頃(1888-1898年)のこのあたりは大高村の集落の東の外れで、西と東の丘陵地に挟まれた狭い平地を田んぼにしていたことが分かる。後にその狭い平地部分に東海道本線の線路を敷いた。 すでに津島社はこの場所にあったはずだけど鳥居マークは描かれていない。 1932年(昭和7年)になると東側に道路が通り、その東の田んぼが空白地になっている。昭和11年に開業することになる大日本紡績の工場用に整備したということなのだろう。 工場は戦時中は三菱重工業航空機工場に転用され、戦後の昭和21年(1946年)にニチボウ大高工場として再出発した。 昭和39年(1964年)にユニチカに改名。 昭和44年(1969年)名古屋市に買収され、工場跡地に森の里団地が建てられた。 1959-1960年(昭和34-35年)の地図から鳥居マークが現れる。 1968-1973年(昭和43-48年)頃に今の町並みの原型が完成したようだ。
かつての天王社は、大高村集落の東の出入り口に当たる場所に建てられたということを考えると、村の外から疫病などの悪いものが入ってこないようにするためにこの場所に建てたということだろうか。 早い段階で天神も勧請したのは、東側の田畑の神として祀る目的だったか。このときの天神は菅原道真を祀る天満宮ではなく、農耕の神としての天神だったはずだ。 江戸時代以前の大高村は、大高城が桶狭間の戦いからほどなくして廃城になっているので、それほど大きな集落だったとは考えにくい。 尾張藩家老の志水家が大高の地を領して、大高城跡の三の丸に館を構えて住むようになったのが1616年なので、村の発展はそれ以降のことだと思う。 ただ、除地となったのが1608年の備前検地の前だったとすれば、江戸時代以前に建てられた可能性もある。 境内社の天神の勧請が1676年というのであれば、それ以降ということはないだろう。
なかなか立派で規模も大きな神社で感心した。村の天王社からここまで立派な神社になる例は名古屋市内ではあまりない。 境内の雰囲気や社殿の姿は江戸時代感といったものをとどめている。なかなか悪くない。
作成日 2018.10.20(最終更新日 2019.4.4)
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