国道1号線(旧東海道)と名鉄名古屋本線の線路の間の狭いところに鎮座している。 ネット情報では館秋葉神社としているものがあるのだけど、これが正式名なのかどうか分からない。館が地名だとすると、現在地の東500メートルほどのところに豊明市栄町館という地名がある。そこから移したという可能性もあるのか。
名古屋市の町並み保存地区に指定されている有松の町の入り口から見ると200メートルほど東に位置している。かつての有松宿の入り口の守りとするには少し離れすぎているように思える。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、有松の集落からはやはり少し離れている。街道沿いにポツポツ家が建ち並んでいる中にある感じだ。ただし、この神社が当時からずっとこの場所にあったとは限らない。 創建年代がいつ頃なのかということについても予測が難しい。古ければ江戸時代だろうけど、明治以降かもしれないし、昭和に入ってからという可能性もある。 社号標の裏には昭和四年一月、鳥居の裏には昭和四十三年三月とあり、少なくとも昭和4年(1929年)にはすでにあったことが分かる。 石灯篭などは古びているので、思いのほか古いかもしれない。
有松宿は東海道五十三次の正式な宿場ではなく、池鯉鮒宿と鳴海宿の間宿(あいのしゅく)として江戸時代に入ってから作られた町だ。 東海道が整備されるまではもっと北にあった鎌倉街道沿いに集落があり、桶迫間村のこのあたりは荒れ地で人家の少ないところだった。 1608年、尾張藩が知多郡に高札を掲げて入植者を募集したところ集まったのが知多郡阿久比村の竹田庄九郎など8人だった。そこから有松宿は出発している。 しかし、鳴海宿からも近いことで茶屋としてもなかなかやっていけず困っていた。そこで尾張藩が絞り染めを奨励し、開発されたのが有松絞りだった。竹田庄九郎が有松絞りの開祖と呼ばれているのはそういう経緯があってのことだ。 これが当たって東海道名物の土産物として売れて有松宿は発展していった。幕末の1844年(天保14年)の記録では家数135軒、516人となっている。 有松の地名は、松が生い茂っていたことから来ているという説と、江戸時代に新しく作られた町で新町(あらまち)と呼ばれていたのが有松に転じたという説がある。後者がもっともらしいけど、江戸時代前期には有松村となっていることからやはり前者の説が合っているのではないか。 現在の町名の境松も国境沿いの街道筋に松並木が続いていたことから来ているとされる。 神社横の鉄道は大正6年(1917年)に開通した愛知電気鉄道有松線で、大正12年(1923年)に三河方面に延長して豊橋線になった。後に名岐鉄道と合併(昭和10年)して、今は名鉄(名古屋電気鉄道)の名古屋本線になっている。
江戸時代中期の1784年(天明4年)に有松宿は大火事でほぼ全戸が焼失している。 建て直すときに茅葺きを瓦葺きとし、ナマコ壁とするなど防火対策がとられ、その町並みが現在に続いている。 秋葉社が建てられたのはそれがきっかけだったとも考えられる。集落の中にも小さな秋葉社がたくさん作られたのではないかと思うけど、祇園寺の中、西町の長坂道、中町地蔵堂の隣、東町の御嶽神社の横に現存している。 有松が住宅地となったのは1970年代以降のことで、今は古い町並みと新しい建物が混在する風景となっている。 ちなみに、有松のすぐ東に中京競馬場(豊明市)ができたのは昭和28年(1953年)で、国営競馬だった(農林省)。
有松の町並みは名古屋観光としてちょっとおすすめしたい。有松駅からすぐなので鉄道で行くには便利なところだ。車の場合はイオンで買い物をしつつ駐車場に停めて歩くという手もある。 桶迫間古戦場は緑区北桶狭間(地図)と豊明市栄町館(地図)と二ヶ所の伝承地があって、緑区の古戦場跡公園は有松駅から歩くと30分くらいかかるけど、豊明市の方は中京競馬場前駅から歩けばすぐだ。 半日くらいかけてこれらをぐるっと歩いても楽しめると思う。
作成日 2018.10.28(最終更新日 2019.4.5)
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