桶狭間村の氏神社で、有松の天満社が江戸時代後期の1824年に建てられるまでは有松村の人たちにとっても氏神はここだった。 桶狭間村は南北朝時代の1341年頃に南朝の落人がここまで逃れてきて通称「林」と呼ばれた山間の洞窟で隠れ住んだことが始まりと伝わっている。 それがどういった人たちだったのか詳しいことは分からないのだけど、その人たちもしくは子孫が信仰する神を祀ったがこの神社の始まりということになりそうだ。もちろんそれは神明社ではなかったはずだ。 ではもともとの祭神は何かといえば、それはもう分からないとしか言いようがない。一族の氏神かもしれないし違うかもしれない。武士だったのか南朝の朝廷の人間だったのか村人だったのかもはっきりしない。
『尾張志』(1844年)の桶狭間村の項を見るとこうなっている。 「神明ノ社 愛宕ノ社 山神ノ社 此三社桶はさまむらにあり」
『尾張徇行記』(1822年)は桶迫間村としてこう書いている。 「神明、山神、愛宕三社覚書ニ社内二町二反一畝十歩前々除 長福寺書上ニ氏神神明社内一町四畝歩愛宕社内四反歩山神社内二反歩共ニ御除地、三社共ニ勧請ノ年紀ハ不知」
長福寺(地図)は神明社の300メートルほど東にある浄土宗の寺で、戦国時代中期の1538年(天文7年)に創建されたとされる。 濃州山県郡溝口村慈音寺の末寺で、桶狭間の戦い(1560年)のときには今川義元の本陣に住職が酒などを持参してもてなしたというから、織田方とあらかじめ話が通じていたのではないかと思う。 合戦が済んだ後、今川義元の茶坊主だった林阿弥がこの寺の境内で義元などの首実検をさせられた。 その縁もあり、今川義元と松井宗信の木像が安置させている。 江戸時代は長福寺が神明社や愛宕、山神の管理をしていたのではないかと思う。 前々除となっているから三社とも江戸時代以前にあったことは間違いない。 『張州雑記』には、神明宮、山神祠、愛宕祠の他に石神祠と天王祠があると書かれている。 現在、桶狭間に残るのは神明社だけとなった。山神や愛宕社などは神明社に移されている。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に神明ノ社、桶はざまむらにあり、と昔から桶狭間村の氏神として崇敬あつく、明治5年7月、村社に列格し明治11年3月、村内鎮座の神社を境内神社に合併する。大正2年3月5日、供進指定社となる。昭和12年1月、社殿を改築した」
神社には桶狭間の戦いの前に瀬名氏俊(せなうじとし)が戦勝祈願をして奉納した酒の桶(おけ)が伝わっている(非公開)。 瀬名氏俊は今川方の先鋒隊の大将として桶狭間の戦いの2日前に現地入りして義元が昼食休憩をするための本陣を設営している。それは長福寺の裏のセト山と呼ばれる場所だった。後に地元の人間はそこをセナ藪と呼んでいたという。 セトはセドとも呼ばれ、背戸から来ている。桶狭間村の中心だった森前から見て裏手の山ということで背戸と呼ばれていた。 義元本陣はその標高40メートルほどのセト山の上に設営されたとされる。 桶狭間の戦いの前半は今川義元の計画通りに進んでいた。鳴海城、大高城を押さえ、織田方の丸根砦、鷲津砦を落とし、あとは沓掛城から大高城に移動し、そこから舟で熱田の湊に入り、美濃路を北上して織田信長の本拠である清須城を落とすつもりだったのだろう。 しかし、そのルートは信長も読んでいた。信長は戦略にも優れた武将で、何より情報を重視した。瀬名氏俊がセト山に本陣を設営したのも把握していたはずで、大高城西に多くの武者舟が用意されていたことも掴んでいたとされる。 桶狭間の戦いで勝利した後、一番の功労者としたのは今川義元に槍を突き刺した服部小平太でも、義元の首を取った毛利新介でもなく、簗田政綱なる人物だったのは、そのあたりの今川軍の計画を掴んで知らせたからではなかったかと思われる。 沓掛あたりの土豪という話もあるけど、のるかそるかの大勝負というときに信長がそんな素性の知れない人物がもたらした情報を信じるはずもなく、やはり信長があらかじめ放っていた隠密と考える方が自然だ。 本陣設営を終えた瀬名氏俊は配下の200名ほどとともに桶狭間村の氏神だった神明社で戦勝祈願を行い、大高城に入った。大高城が戦場にならなかったおかげで生きながらえることになったのだから、祈願は半分叶ったと言うべきか。 近くには瀬名氏俊たちが軍議を開いたところとされる戦評の松や義元馬つなぎなどの伝承も残されている。 セト山の西には大池という溜め池がある。旧暦5月19日になると今川義元の亡霊が真夜中に白装束で白馬に乗って大池の周りを駆け回るという伝説がある。江戸時代にこの姿を見た刈谷の魚屋は義元の亡霊に他言無用と告げられたのを守らず人に話してしまって熱病にかかって死んだという話も語り継がれている。 毎年この日には大池で桶狭間古戦場まつり・万灯会が行われている。池の周りにロウソクの火を灯し、桶狭間の戦いで命を落とした兵士たちの霊を弔うものだ。
神明社の境内は広く、境内社は多い。愛宕社、山神社の他にも熱田社、天満社、鹽竈社、浅間社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社、石神社、秋葉社、津島社、洲原社がある。 江戸時代中期の1753年(宝暦3年)に社殿の大造営が行われ、そのときに建てられた神楽殿が今も残っている。 本殿などは昭和10年(1935年)に改築された。 拝殿前の左右に立っている木は尾張藩四代藩主・徳川吉通が知多郡を訪れたときに植えた杉の苗木が成長したもので、1824年(文政7年)に台風で傷んで枯れて、横に若木を植えてそれが育ったものだ。
現在は毎年10月の第2日曜日に行われている例祭は、かつては8月16日(旧暦)と決まっていた。始まったのは寛文年間(1661-1673年)とされる。 最初に書いたように有松村に1824年に天満社が建てられるまでは有松村の住人の氏神でもあったため、祭礼も桶狭間村と有松村の住人が共同で行っていた。 その後、有松村に天満社ができたとき、有松村天満社の祭礼は神明社の祭礼の前日、8月15日となった。 有松天満社と桶狭間神明社のそれぞれの祭礼のときは馬や獅子などが両方の神社を往復した。それは戦前まで続いたようだ。 現在の神明社の例祭では上中下の3組に分かれて大きな太鼓を積んだ音頭台や笠鉾などの行列が出る他、鳴海などに多い猩々(しょうじょう)も加わるようになっている。 その氏子の中には南朝の子孫もいるのかもしれない。 時は流れ、町並みは激変し、神社の祭神も変わったけど、人の命はずっと途切れることなくつながっている。
作成日 2018.11.3(最終更新日 2019.4.7)
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