外観から受ける印象としては、仏教系のお堂か新宗教の施設かといった感じなのだけど、もともと塚を祀っていたのが始まりで、近年になって神社になったらしい。 古くは二位殿塚といっていた。素直に捉えれば、正二位(しょうにい)や従二位(じゅにい)といった位階の人を葬った塚(墓)だったと考えられるのだけどどうだろう。 正二位や従二位といえばかなりの高位で、律令制では左大臣・右大臣に相当した。あるいは、令外官では内大臣や蔵人別当がそれで、女性でいえば大臣の正室が二位に叙せられることがあった。 時代が下って鎌倉・室町になると公卿で二位になることがあっても足利将軍家の管領ですら三位が最高位だった。 この塚がいつ造られたのかは分からないけど、もし実際に二位の人物が葬られたとすれば、かなり高位の人物だったということになる。
緑区のページはこんなふうに書いている。 「二位殿塚(にいどのつか) 左京山駅近くの手越川沿いの一角に小さな祠がある。元はもう少し北の田圃の中に東西に細長い島の形をして鬱蒼と樹木が茂っていた塚があった。何の塚か分からないが、昔から「二位殿」(左・右大臣奥方で平家の落人を祀った塚)と称してお山の石碑や木の葉を手にしては瘧(おこり)になるといわれ、大切に地元の人々に保護され、崇敬者が多い」
「左・右大臣奥方で平家の落人を祀った塚」がどの程度信用できる情報からいっているのか分からないのだけど、たとえば平安時代で女性の二位といえば平清盛の正室だった平時子がそうで、「二位尼」といわれていた。 もし二位にある女性が尾張のこのあたりに落ちてきて命を落としたら記録に残っていそうなもので、左右大臣の奥方云々というのはちょっと信じがたい。ただ、平家の落人が葬られたという伝承は何らかの事実を反映したものという可能性はある。
『尾張志』(1844年)の鳴海村の神社の項に二位殿社はない。 鳴海むらの塚十ヶ所を挙げていて、その中に含まれているから、江戸時代はまだ社といったものはなかったようだ。その塚は以下の通り。 「大塚 赤塚 浄知房塚 白山塚 二位殿塚 千鳥塚 起請塚 きつね塚 栗塚 祐傳塚」
『尾張名所図会』(1844年)は「二位殿塚(にいどののつか)」として以下のように書いている。 「鳴海村にあり。誰人の塚なる事を知らず。碑面苔蒸して見分けがたし。土人の崇敬大方ならず。此塚に手を触るれば現罰を蒙るとて、敢て近(ちかづ)くものもなければ、いよいよ其由来を尋ね文字を知るに便なし。此塚に祈願するに霊應神(れいおうしん)のごとし。故に近来四方の群参日ごとに絶ゆる事なし。すべて二位殿と稱して敬信す。瑞泉寺これを守りて法楽供養をなせり」
塚に触ると祟りがあるといって近づく人はいないけど、この塚に祈願をすると叶うという評判が立って村の内外から大勢の人がやってくるといっている。 瑞泉寺が管理しているということで、平部山の住人が関係しているのではないかという話もある。 瑞泉寺は現在諏訪社(諏訪山)がある場所の隣に、1396年に鳴海城主の安原備中守宗範(やすはらびっちゅうのかみむねのり)が瑞松寺(ずいしょうじ/web)を建てたのが始まりで、応仁の乱(1467-1477年)の頃に兵火で焼けて、1501年に東海道沿いの現在地(地図)に移され、瑞祥寺と改め、1716年に現在の瑞泉寺と改名した。 ただ、安原宗範は室町時代の足利義満配下の武将ということで、塚が築かれたのが平安時代もしくはそれ以前とすれば時代が合わない。 文献上では1745年(延享二年)の『愛知郡村邑全図』に「二位トノ」とあるのが最も古いとされる。 別史料によると、碑には「二位殿」「五月廿日」と刻まれていたという。
塚の話が出てきたので、ついでに緑区の歴史をざっと振り返ってまとめておくことにする。 鳴海の西から大高の北、そして西側は古くは海だった。その海は最初、年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれ、後に鳴海潟(なるみがた)と呼ばれるようになる。 縄文時代は気温が高く海面が上昇したため、平地は海に沈み、人々は高台の海辺に暮らしていた。 それから弥生時代にかけて気温が下がると海面も低くなり、川から運ばれてきた土砂で平地が広がり、少しずつ低地にも人が住むようになっていく。 ただし、古墳は高台のかつて海岸線だった近くに築かれた。 旧石器時代の遺跡は緑区内では発見されていないものの、石器がいくつか見つかっていることから1万年以上前からこの地に人がいたことが分かっている。 縄文時代以降の遺跡は大高と鳴海に多くある。それらが同じ勢力下にあったかどうかについてはよく分からない。 現在、鳴海小学校(地図)となっている場所から昭和2年(1927年)に貝塚が見つかり、雷貝塚(いかずちかいづか)と名づけられた。これが緑区内で最初に発見された縄文時代の遺跡だった。 貝塚というと貝殻のゴミ捨て場というイメージを持っている人が多いかもしれないけど、それだけではなくて石器や土器、装飾品や人骨まで出てくるので、もっと広い意味での埋葬地だったと考えられている。 雷貝塚からはハイガイなど貝類の他、耳飾りや勾玉、石鏃、石斧に加えて35体の人骨も発掘されている。 その他、鳴海地区では上ノ山貝塚、光正寺貝塚、清水寺遺跡、鉾ノ木貝塚、大根貝塚があり、大高エリアでは斎山貝塚、氷上山貝塚、菩薩遺跡、折戸遺跡などが見つかっている。 弥生の遺跡でいうと、鳴海では前之輪遺跡、諏訪山遺跡、矢切遺跡が、大高では西大高遺跡、大高畑遺跡、姥神遺跡などが知られている。 鳴海の海底からは青銅器の銅鐸が発掘されたものの、残念ながらその後行方不明になっている。 江戸時代にこの銅鐸を見た大田南畝などが書き写した絵図によると、袈裟襷文で鈕には耳が左右に三個についていたことが分かる。 名古屋で見つかった銅鐸としては瑞穂区軍水町から出た中根銅鐸がよく知られている。他には名古屋城築城の際に濠から見つかったと伝わる銅鐸があるくらいで、出土例が少ない分、希少性が高い。 古墳は小型の円墳が多く見つかっている一方で大型の前方後円墳は発見されていない。最も古いと考えられるのが大高の斎山古墳(いつきやまこふん)で、4世紀までさかのぼりそうだ。前方後円墳もしくは帆立式古墳と考えられている。 すぐ西の東海市名和には兜山古墳や三ツ屋古墳があり、そちらとの関係性も指摘される。 鳴海地区では新海池の一帯に古墳が密集している。知られているものとしては、大塚古墳、赤塚古墳、薬師山古墳、大根古墳、狐塚古墳などがあり、多くは消滅して大塚古墳と赤塚古墳跡だけが残った。 これらは横穴式石室を持つ古墳後期の円墳とされる。 奈良時代から鎌倉時代前半にかけて名古屋東部で須恵器が多く焼かれた。それは猿投山西南麓古窯跡群と呼ばれるもので、緑区では大高からから有松、鳴海にかけて100基ほどの古窯跡が見つかっている。 当初の焼き物は丘陵地の斜面を掘って焼いていて、良質の土に加えて斜面となる丘陵地と燃料となる松が必要不可欠だった。鎌倉時代以降に窯が東の猿投や瀬戸などに移っていったのは、それらの資源を使い果たしてしまったからと考えられる。
以上、緑区の歴史をざっと見てきたけど、これらの歴史の流れの中で神社がいつどういう勢力によって建てられたかを考える必要がある。 大高には氷上姉子神社が、鳴海には成海神社や鳴海八幡宮といった古い由緒ある神社があって、それらについては史料や情報も多く、ある程度は知ることができるのだけど、それ以外の古い神社についてはよく分からないというのが実情だ。 緑区全域を尾張氏やその関係氏族が支配していたのか。今は埋もれてしまった別の勢力があったのかどうか。
二位殿塚の発掘調査が行われたのかどうは調べがつかなかった。塚の主は静かに眠りたいと思っているのか、知ってほしいと願っているのか、それは分からない。
作成日 2018.11.5(最終更新日 2019.4.7)
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