現在、八幡社と名乗っているこの神社はもともと神明社だった。 神明社があったところに八幡社を合祀して、八幡社が村社で神明社で無格社だったので格上の八幡社が社名となった。そんなに複雑な話はないのだけど、神明社の関係者にとってはやや複雑な心境だったかもしれない。 祭神として天照御大神と應神天皇を祀っているのはそういう理由だ。 八幡社の旧地は260メートルほど北西の現在、古鳴海住宅(地図)が建っているところだった。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「八幡社は鳴海村字小組に鎮座し、明治5年7月28日、村社に列格す。神明社は鳴海村字上ノ山の当所に鎮座無格社であった。明治42年4月15日、八幡社を神明社に合併の上社名を八幡社と改称した。『尾張志』に神明社二所、八幡社古鳴海にあり、とある如くに氏子区域を古鳴海と称し鎌倉街道の古邑にて、今の鳴海町は後世此の地より移ったもので、本神社の創建は古き世の事なり。昭和15年10月、社殿を造営し同年12月10日、供進指定社となる」
神明社も八幡社も旧鎌倉街道沿いにあって、『寛文村々覚書』(1670年頃)に除地となっていることから江戸時代以前からあった神社ということがいえる。 鎌倉街道は一本の道ではなく鎌倉に通じる道の総称で何本もあった。 名古屋でいうと、上の道、中の道、下の道と呼ばれる道があり、両神社沿いの道は中の道と呼ばれた通りだった。 緑区内では、上の道と中の道が八劔社(野並)の南あたりで合流して南下し、古鳴海の八幡社、神明社の横を通って新海池の北西あたりで下の道と合流しつつ二手に分かれ、潮見が丘あたりで再び合流して東に進路を変え、諏訪社(相原郷)、八幡社(八つ松)の前を通って豊明の二村山に向かったと考えられている。 古鳴海の地名は鳴海の町の中心が東海道が整備されてそちらに移った後につけられたもので、それまでは鎌倉街道沿いのこのあたりが鳴海の中心地だった。
明治42年に二社を合併させたのは、明治政府の神社合祀政策によるものだった。この時期に廃社もしくは合祀された神社は多く、名古屋でもこのとき事実上なくなった神社が少なくない。 境内社の石神社はかつて200メートルほど南東の嫁ヶ茶屋にあったもので、同じ時期に神明社に移された。 ヤマトタケルが東征のときに旅路の無事を祈願したという伝承が残る古い神社で、江戸時代は山神社と称していた。 嫁ヶ茶屋の地名は鎌倉街道でどこかの家の嫁が茶屋をやっていたことから来ているという。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、まだ合併前なので八幡社と神明社のそれぞれの鳥居マークが描かれている。石神社(山神社)は確認できない。 神社があるあたりは丘陵地帯で、東の道が旧鎌倉街道の名残だろう。 田んぼは現在の56号線の西側、天白川の両側に広がっていた。 古鳴海の集落は、神明社の北、桂林寺の東あたりにあった。家数はあまり多くない。 桂林寺は明暦2年(1656年)に真言宗の薬師堂として建てられたのが始まりで、安永5年(1776年)に八事仏地院の物道和尚がここに隠居して曹洞宗に改宗した。明治には尼僧が守っていたという。 昭和17年(1942年)に薬師山桂林寺と改め、第二次大戦の空襲で焼けて戦後に復興した。 本尊は東方薬師瑠璃光如来像で、脇仏の阿弥陀如来は平清盛から鳴海の工夫に下賜されたものと伝わっている。 神社周辺の様子は大正から戦前まではあまり変わらない。 戦中に現在アピタ鳴海店がある南に大きな工場が建った。名古屋製陶所(元・帝国製陶所)の陶磁器工場だ。 戦中の1943年に住友金属工業がこの鳴海工場を買収して名古屋軽合金製造所として航空機の空冷気筒を生産していた。 戦後に扶桑金属工業の鳴海製陶所として再出発した。 昭和25年(1950年)には住友金属工業から分社して鳴海製陶として独立し、現在まで続いている。知名度こそ低いものの、ノリタケカンパニーに次いで洋食器業界の国内第二位の地位にある。 1960年代になると、区画整理されて道もできて、家も増えた。 1970年代に大きく発展して、今の町ができあがった。
八幡社の現在の社殿は昭和42年(1967年)に建て替えられた鉄筋コンクリート造で、昔の風情は残っていない。 『愛知縣神社名鑑』には本殿は流造とあるけど、見えないのでどうなっているのかよく分からない。 例祭日は10月15日なのか、第二日曜日か、確認が取れなかった。 旧暦の8月17日に神明社の元祭として献燈神楽祭が行われるという。
神明社と八幡社の創建がどこまでさかのぼれるかは何とも言えない。 鎌倉街道沿いに八幡社があるのはよくあることなのだけど、中世に八幡信仰が流行ったときに全然別の神社を八幡社にしてしまった例が少なくないから最初から八幡社として創建されたと決めつけることはできない。 神明社が室町以前の創建だとすると、こちらももともとはアマテラスを祀る神明社ではなかったかもしれない。古鳴海の土地柄からしても、江戸時代以前にアマテラスの神明社は似つかわしくないように思う。 鳴海は成海神社がそうであるようにヤマトタケル東征のゆかりの地で、石神にも伝承が残るくらいだから早くから集落があったと考えられる。新海池周辺から大塚、赤塚などいくつかの古墳が見つかっていることからも古墳時代もしくはそれ以前からこの地に人が暮らしていたのは明らかだ。古い神社があっても不思議ではなく、それは神明社や八幡社といったものではなかったのではないか。 鳴海の歴史は深いところに眠っていて、神社の歴史を辿るのも難しく感じられる。
作成日 2018.11.10(最終更新日 2019.4.8)
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