雷の神を主祭神として祀るとしている名古屋で唯一の神社が鳴海にあるここ雷社だ。 雷神を祀るとしている神社は全国的に見てもかなり珍しいのではないかと思う。昔からそうだったのか、時代の移り変わりの中で廃れていったのかはよく分からない。 天神信仰というのは本来は雷と関係があった。 雷は「神鳴り」から来ているという説もあり、雷は天の力が地上に注がれることであって、田んぼに雷が落ちることで稲が実ると古代の人たちは考えていたとされる。雷の別名の「稲妻」が稲の妻という字を当てられているのはそこから来ている。 菅原道真は無実の罪を着せられて太宰府に流され、そこで失意の内に死去し、その後、京の都で関係者の急死が続き、落雷が原因で清涼殿が焼け落ち、大納言の藤原清貫が雷に打たれて死ぬなどしたことから道真は天神に違いないということになり、火雷天神の生まれ変わりとされた。 それには根拠があって、死後すぐに道真は天満大自在天神という神格で祀られていたのだ。 そういう経緯があって、天神=雷神=農耕の神という図式ができ、後に怨霊の要素は消えて天神は農耕の神として祀られることになる。更には天神=天満ということで、もともと農耕神としての天神を祀っていた神社が学問の神としての菅原道真を祀る天満宮になっていった。
名古屋で雷にまつわる神社というと、北区中味鋺の西八龍社がある。今も雷除けの神社とされているのだけど、そういわれるようになったのは江戸時代中期以降のことなので、それほど古い信仰というわけではない。主祭神としては水の神であり龍神でもある高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。 上小田井の諏訪社にはちょっと面白い話が伝わっている。あるとき諏訪社の境内に雷が落ちて、それに怒った諏訪の神は金網で雷を捕まえて二度と境内に落ちないことを誓わせて天に帰したというものだ。 この雷を建御雷神(タケミカヅチ)のことと考えると、タケミカヅチに負けた諏訪の神であるタケミナカタが返り討ちにしたというふうにも取れて興味深い。 ただ、建御雷神は必ずしも雷属性の神というわけではない。 上賀茂神社(賀茂別雷神社/web)の祭神、賀茂別雷神(カモワケイカヅチ)も雷神ではなく、雷を別けるほどの力を持つ神ということから来ている。 ついでに雷(いかずち/いかづち)の語源についていうと、猛々しいという意味の「厳(いか)」と霊的なものを意味する「霊(ち)」からなる言葉で、「ず/づ」は助詞の「つ」なので「厳つ霊」ということになる。 「いかずち」と「いかづち」は同じとされるけど微妙に違うかもしれない。雷社は住所の地名が「いかずち」なので「いかずち-しゃ」なのだと思う。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではないが成海神社の『古実聞書』の元禄年間(1688-1708)の記録に鎮座地雷の地名は成海神社の霹雷祭執行の故地と見え古き創建なり。須佐之男神社も此の地に古くより鎮座あり、宝永七年(1710)社殿大破により葺替えの棟札を残す。『尾張志』に雷神社、天王社とあり、明治6年据置公許となる。雨乞い、火防せに功徳ある」
成海神社の霹雷祭が行われた旧地というのは非常に気になるところだ。 霹雷祭の「靂」は「青天の霹靂(へきれき)」の靂で、霹靂は激しい雷鳴のことをいう。雷祭ではなく霹雷祭というからには何か激しい神事を思わせるのだけど、現在は行われていないはずで、どんな神事だったのかは分からない。成海神社には伝わっているのだろうか。 成海神社は飛鳥時代後期の686年に創建されて、室町時代前期の1394年に安原宗範が鳴海城を築いたときに現在地に移された。成海神社の霹雷祭がここで行われていたというのは、今の乙子山に移される前のことと思われ、鳴海城が建てられたのは天神山だった。その頃すでに成海神社には天神信仰と関わりがあったと考えてよさそうだ。 成海神社の旧地には天神社が祀られ、雷社はそこから見て120メートルほど東南に位置している。 成海神社内ではなく雷社の場所で霹雷祭が行われた理由はよく分からないのだけど、この場所に雷が落ちたので社を設けて祀り、霹雷祭もここで行ったということは考えられる。 雷社と須佐之男社をいつ合祀したのかは調べがつかなかった。もともとは天王社として別の場所にあったはずだ。 今昔マップで現在地に鳥居マークが描かれるのは1932年(昭和7年)以降のことではあるけど、鳥居マークがないからといって神社がなかったとは言えない。 『寛文村々覚書』(1670年頃)と『尾張徇行記』(1822年)に天王社はあるものの雷社がないのは気になるところだ。
今昔マップで鳴海の変遷を見つつ地形的なことをいえば、古代、鳴海駅のあたりは鳴海潟と呼ばれる海で、成海神社の旧地は海辺の丘だった。 雷神社の260メートルほど北(地図)で貝塚(雷貝塚)が見つかっており、縄文時代晩期からこのあたりで人が暮らしていたことが分かっている。そこからは貴重な人骨なども出土している。 東海道が整備されて鳴海宿ができたのは江戸時代に入ってからで、それ以前はもっと北を通る鎌倉街道沿いが鳴海の中心だった。今、古鳴海と呼ばれているあたりだ。 雷神社周辺には萬福寺、浄泉寺、圓龍寺、圓道寺、誓願寺、瑞泉寺など多くの寺が集まっている。室町時代に鳴海城が築かれて以降、ここは城下町でもあった。 江戸時代から鳴海宿として賑わっていたところなので、明治以降、大正から昭和初期にかけても急速に発展したというふうではない。 1932年(昭和7年)の地図で大きな変化があったのは鳴海球場ができたことだ。 東の神宮球場、西の甲子園に負けないものを作るということで昭和2年(1927年)に愛知電気鉄道が中心となって建設した球場だ。 この地方の高校野球の中心となり、昭和11年(1936年)には日本初のプロ野球となった東京巨人軍と名古屋金鯱軍の試合が行われた。 しかし、戦中は日本軍に接収され、戦後はアメリカの進駐軍に取られてしまう。 戦後になって名鉄はドラゴンズの経営から撤退し、鳴海球場は経営難で昭和33年(1958年)に閉鎖された。 その後、名鉄自動車学校として生まれ変わり、現在も球場だった頃の面影を一部に残している。 1950年代以降、北の丘陵地が開発されて住宅地になり、今の町並みができあがった。
雷神というと俵屋宗達が描いた『風神雷神図』を思い浮かべる人も多いかもしれない。その後、琳派を継承した尾形光琳や酒井抱一も同一の画題で描いている。 輪のように連ねた小太鼓を背負って手にバチを持つ鬼の姿で描かれることが多かった。 神仏習合の時代には、風神とともに千手観音の眷属(けんぞく)とされていた。 古くはイザナギとイザナミの神話にも雷神は登場する。 火の神カグツチを産んだときの火傷がもとで死んでしまったイザナミを黄泉の国に追いかけていったイザナギは、変わり果てたイザナミの姿に恐れをなして逃げ出した。そのときのイザナミは、体にはウジがたかり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神が生じていたと『古事記』は書いている。 醜くなった姿を見て逃げ出したイザナギに怒ったイザナミは、8柱の雷神に黄泉の国の軍勢をつけて追わせた。 菅原道真と天神信仰についてはすでに書いたけど、雷神信仰というのは正式に神社で祀られるというよりも民間信仰に近いものだったのかもしれない。 今はあまり言わなくなってしまったけど、悪いことをすると雷様におへそを取られるぞというようなことを昔はよく言った。 もっと言わなくなった言葉に「くわばらくわばら」というのがある。今の若い世代は聞いたことがないくらいかもしれない。雷よけの呪文とされたもので、あちこちで雷が落ちて被害が出たときも菅原道真の邸があった桑原には一度も落ちなかったことから、桑原桑原と唱えると雷除けになると信じられていた。そこから発展して、悪いことが我が身に降りかからないように唱えるおまじないのように使われた。
例祭日は7月15日で、特殊神事として「ぼごうまつり」と呼ばれる天王まつりが行われると『愛知縣神社名鑑』に書かれている。古い情報が元になっているので今はもう行われていないのかもしれないけど、7月15日の夜に町内の代表者がおみきや献灯を持って参拝し、式の後に青竹五本にそれぞれ二十個の提灯をつけたものを奪い合うというものらしい。 『緑区の歴史』には竹の梵天を立てるとあるので、今はもう少し穏やかなものになっているだろうか。 雷社の神事としてはどんなことが行われているかも気になるところだ。
作成日 2018.11.14(最終更新日 2019.4.9)
|