いろいろ分からないことが多い神社で、特に神ノ倉の熊野社との関係がよく分からない。 江戸時代のここは相原村だった。相原村は鳴海村から独立した地区で、東隣の平手新田と並んで鳴海村に囲まれるような格好になっていた。 相原村には、諏訪社、熊野社、山神社があったことが『尾張志』(1844年)などから分かる。 『寛文村々覚書』(1670年頃)は「鳴海庄 相原村 元ハ鳴海村之内也」として神社については以下のように記している。 「社三ヶ所 社内壱町弐畝弐拾歩 内 明神 鳴海村祢宜 仁太夫持分 権現 当村祢宜 九郎左衛門持分 山神 同 茂兵衛持分」 明神は諏訪社のことで、権現は熊野社のことを指している。 ちょっと気になるのは、諏訪社が仁太夫という神職が管理していたのに対して熊野社は九郎左衛門という俗名の人が管理していたという点だ。 『尾張徇行記』(1822年)は以下のように書いている。 「山神祠境内一反三畝二十六歩ホト前々除、熊野権現祠境内三畝十歩ホト前々除 古覚書ニ、諏訪大明神社内九反トアル由ミヘタリ 鳴海村祠官久野越後書上ニ、相原村諏訪大明神境内九反御除地」 山神、熊野権現は前々除で、諏訪大明神は除地となっているものの、いずれも1608年の備前検地のときはすでに除地となっていたということで、創建はそれ以前にさかのぼることは間違いない。 相原村の成立は備前検地の1608年なのだけど、実質的には古い時代に分かれていたとされる。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、諏訪社の西の大形山麓に集落があったことが分かる。江戸時代前期には家数30、人数213人とあるので、大きな集落ではなかった(『寛文村々覚書』)。 相原は「あいばら」と濁る。古くは粟飯原、藍原とも表記した。
緑区のwebサイトにはこんなことが書かれている。 「創建は不詳で神ノ倉の熊野社が古くからの氏神であったが、後に戦いの神として信仰の厚い諏訪明神を勧請した。そのため熊野社を山奥の神ノ倉へ移転し、諏訪上社の祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)が祀ってある。境内に山神社他多数が鎮座している。熊野社はかつて諏訪社の氏子が管理していたが、東部地区が発展して独立した」 何か記録があるのか、そういう言い伝えがあるのかは分からないのだけど、これが本当だとすれば軽く受け流していい話ではない。
後に諏訪社を勧請したのは本多右馬充助定という話がある。 本田氏は藤原北家兼通の流れをくむ一族で、助秀の代に豊後国本多(大分県)に移り住んで本田姓を名乗るようになったという。後に三河国に移って本田平八郎忠勝につながっていく。 助定が足利尊氏に仕えて功績を挙げ、尾張国の横根郷(愛知県大府市)と粟飯原郡の地頭に任じられたと『本朝武林伝』(諏訪忠晴 1639-1695年)にある。 しかし、本田氏の本家である藤原の氏神は春日大神(春日大社 web)であり、豊後国の一宮といえば西寒多神社(ささむたじんじゃ web)と柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう web)で、諏訪国の諏訪明神(諏訪大社 web)と本田氏の接点が見えない。豊後国の二社はいずれも八幡神や神功皇后ゆかりの神社で、助定が個人的に諏訪明神を信奉したということがあったかどうか。 もしそうだったとしても、もともと氏神だった熊野社を押しのけて自分が信仰する諏訪明神の社を建てるなどということが許されたかというと、やはりちょっと信じがたい。 では、どうしてそういう話が出てきたかということになる。
神ノ倉の熊野社は相原の諏訪社から見て4キロも離れた東北の山の上にある(地図)。 そこまで相原村だったのかというとそれも疑問ではあるのだけど、長らく相原の諏訪社の氏子が熊野社も管理していたというから熊野社と相原の関係が深かったのは間違いなさそうだ。 神ノ倉(神之倉)の地名は熊野社から来ているとされるのだけど、神の名を冠する地名はやはり特別で、ずっと古くからこの山が聖なる場所とされていたという話もある。 混乱を深める要素のひとつとして、熊野社は『延喜式』神名帳(927年)の愛知郡伊福神社(イフノ)ではないかという説があることだ。 伊福神社はすでに失われてしまったとされており、昭和区の伊勝八幡宮に伝承が残るくらいではっきりしたことは分からない。 葉栗郡に伊富利部神社(イフリヘノ)があり、一宮市木曽川町の伊冨利部神社(web)がそれに当たるとされる。 伊冨利部氏(伊福部氏)は大和国葛城山から尾張国に移り住んだとさる一族で、672年の壬申の乱では大海人皇子に協力している。尾張氏との関わりも考えられるものの、ほとんど失われた氏族で詳細は不明だ。 弘化四年(1847)の鳴海村絵図には「伊吹の神社」・「クマノ社」とあり、「イブクマノ神社」と呼ばれていたというから、伊冨利部氏と何らかの関わりがあったと考えられる。 熊野社の現在の祭神は伊弉冉尊(イザナミ)とともに伊福利部連命となっている。
『愛知縣神社名鑑』は諏訪社についてこう書いてる。 「社蔵の棟札に”元禄九子歳(1696)霜月吉祥日奉造相原村諏訪大明神安鎮処”と記す。信州諏訪大明神を勧請した。藩政時代は相原村と称したが明治9年鳴海町に合併し相原郷と云う。明治5年7月28日、村社に列し、明治42年9月1日、供進指定社となる。昭和4年6月、社務所を新築する。昭和27年7月隣接の鳴海町字大形山48番地鎮座元無格社山神社を合併、飛地境内神社(境内地408.36坪)とした」
熊野社については触れていない。 大形山にあった山神社を昭和27年に飛地境内社としたとあるのだけど、現在の大形山に山神社はない。諏訪社の境内にあるからここに移したということだろうか。 境内社として熊野社が半ば独立した格好であるのは、神ノ倉に移した熊野社をもう一度戻した格好とも思えるのだけど、そのあたりは調べがつかなかった。 全然別の話として、相原村には熊野社と諏訪社があったので、徳重の集落が発展してきたときに相原から熊野社を譲り受けたというものがある。 しかし、不思議なことに神ノ倉の熊野社を調べていると、相原郷から移されたという話が一切出てこないだ。諏訪社の方は熊野社を移したといい、熊野社は移されたとはいっていない。これは一体どういうことなのだろうか。
明治時代までは信濃の諏訪大社と同じ7月27日に例祭が行われ、走り馬といわれる馬の塔が奉納されていたという。 戦後は馬を飼うことが廃れ、現在は10月の半ば(10月18日固定?)に例祭が行われている。 4月15日は祈年祭が行われ、同日に境内社の智明神祭も行っているようだ。神武天皇祭というから祭神は神武天皇なのだろうけど、この社にはどんないわれがあるのだろう。
熊野社が何らかの事情で諏訪社に変わったのか、熊野社とは別に諏訪社が建てられて熊野社が神ノ倉に移されたのか、両社は最初から無関係だったのか。 そのあたりの詳しいいきさつや事情は分からないとしかいえない。不明な点が多いので、調査を継続したい。
作成日 2018.11.15(最終更新日 2019.4.9)
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