アベノセイメイ《安倍晴明》

2020年4月10日

アベノセイメイ《安倍晴明》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名 安倍清明
祭神名 安倍晴明
系譜 (父)安倍益材? 安倍春材?
(子)安倍吉昌、安倍吉平
属性 陰陽寮・天文博士
後裔 土御門家、倉橋家
祀られている神社(全国) 晴明神社(京都府京都市/web)、安倍晴明神社(大阪府大阪市/web
祀られている神社(名古屋) 名古屋晴明神社

本名はあべの”はるあきら”?

 安倍晴明の呼び方は「あべ-の-せいめい」が一般的ではあるけど、正確なところは分かっていない。
 平安時代の人の名を音読みする例は稀だったはずなので、もし「せいめい」を名乗ったり呼ばれたりしていたとしたら、それは通称のようなもので本名ではなかったのではないか。訓読みすれば「はるあきら」とか「はるあき」とかだろう。
 安倍晴明の場合は立場上、本名を晒すことはまずしなかったとも考えられる。古来より日本人は名を知られることは人格を支配されることにつながるとして秘した。身分の高い人は特にそうで、目上の人間を名で呼んだりはしなかったのもそのためだ。女性の場合、名を訊かれて答えることは結婚を承諾したということを意味したくらいだった。
 そういうことを考え合わせると、安倍晴明の本名は「はるあきら」または「はるあき」で、通り名として「せいめい」を名乗っていた可能性がある。文献によっては「清明」と書かれているので、ひょっとすると本名は清明で、「きよあきら」だったかもしれない。

平安時代中期に下級貴族の子として生まれる

 生まれたのは平安時代中期の921年とされる。
 生前からよく知られる人物だったにもかかわらず、出自ははっきりしない。両親についても、生まれた場所についても定かではない。
 系図上では文武朝の右大臣・阿倍御主人(あべのみうし/635-703年)の後裔で、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)が父ということになっている。
 淡路守・安倍春材の子という説や、阿倍氏一族の難波吉士の後裔、あるいは吉師氏の流れを汲む渡来系という説もある。
 阿倍/安倍氏の本流であれば朝臣だったはずがひとつ下の宿禰(安倍宿禰晴明)と書かれたものがあることからしても、阿倍/安倍氏本流の出ではなかったのではないだろうか。
 母親についてはまったく伝わっておらず、葛ノ葉を名乗る狐だったなどという伝承があるくらいだ。
 出身地についても摂津国安倍野(大阪市安倍野区)という説と大和国桜井の安倍(奈良県桜井市安倍)というふたつの説があり、讃岐国(香川県)の人という話もある。

阿倍氏の系統

 阿倍氏は第8代孝元天皇の皇子・大彦命を祖とする一族で、飛鳥時代から奈良時代にかけて高官を輩出した名門だ。第28代宣化天皇の大夫となった阿倍大麻呂や大化の改新後に左大臣となった阿倍倉梯麻呂、第33代推古天皇のとき蘇我馬子の側近だった阿倍麻呂などがいる。
 一番よく知られているのは、遣唐使として唐に渡って玄宗皇帝に重用されて唐で没した阿倍仲麻呂だろうか。百人一首に収録された「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」でもお馴染みだ。
 その後、阿倍氏は布施臣や引田臣などに分かれ、阿倍比羅夫が第37代斉明天皇に将軍として仕えたり、布施御主人が阿倍朝臣の姓を与えられたりして、比羅夫と御主人の後裔が阿倍氏を称した。
 奈良時代に入ると新興の藤原氏などに押されて表舞台での活躍がなくなっていく。
 阿倍氏がいつ安倍氏に改めたのかははっきりしないものの、平安時代初期という説が有力だ。安倍兄雄や安倍安仁が高官として名を残している。
 系図上でいくと、晴明は兄雄の6世孫ということになる。それが本当であったとしても、この頃までに安倍氏は下級貴族となっていた。それを一代で一気に引きあげたのが晴明だった。
 晴明から14代目(南北朝時代)の安倍有世は陰陽師でありながら公卿の身分の従二位まで昇るという快挙を成し遂げている。これも晴明あってのことだ。

前半生はよく分かっていない

 晴明の前半生についてもほとんど知られていない。
 知られていることといえば、陰陽師の賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学んだということと、28歳のときに大舎人だったということくらいだ。大舎人というのは宮中で宿直や警護、雑事などをする下級の役人だ。28歳でこの役職というのは将来の見通しは明るいとはいえない。
 記録上表れるのは960年、40歳のとき天文得業生だったというあたりからだ。
 これは陰陽寮で天文博士から天文道を学ぶ学生でしかない。ただ、第62代村上天皇から占いを命じられたというから、身分は低くても特別な能力の持ち主として知られる存在となっていたのだろう。
 50歳の頃、天文博士に任ぜられてようやく一人前になった。
 晴明の活躍はこれ以降のことで、天皇や皇太子などからも占いや鬼退治の依頼を受けることになる。
 第65代花山天皇からは特に信任が厚かったようで、皇太子時代から那智山の天狗封じや占いの儀式を行っていたとされる。
 次の第66代一条天皇や藤原道長からも信用を得ていた様子が道長の日記『御堂関白記』や他の記録からもうかがえる。
 一条天皇が病に伏せったとき晴明が祈祷をしたらすぐに回復したということで正五位上が与えられた。
 主計寮の主計権助や左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、最終的には従四位下にまで昇った。
 息子の安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられると、それまで陰陽寮の役職を独占していた賀茂氏に安倍氏が並び立つようになっていく。

安倍晴明は陰陽師なのか?

 陰陽道は古代中国の陰陽五行思想をベースに古神道や天文学、暦学、易学、密教などがあわさってできた日本独自の思想だ。
 陰陽五行思想は遅くとも飛鳥時代には日本に入ってきたと考えられており、第33代推古天皇や聖徳太子の時代には国政に影響を与えるようになっていた。
 当初は五行の相生相克や日月星辰の運行などにより吉凶を占うことが主だった。
 熱心だったのが第40代天武天皇で、初めて陰陽寮を設けたのも天武天皇だった(676年)。陰陽師という用語も685年に見られる。
 その後、律令制度において陰陽寮に、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることとなった。
 天文、暦、時間などは陰陽寮が管理する国家機密であり、平安時代前期まではそれが守られていた。
 晴明が陰陽寮の天文博士を務めたのはそれから時代が進んだ平安中期で、その頃までにはかなり緩くなっていたようで、民間にも陰陽師を名乗る人間がいて怪しげな儀式などを行っていた。
 神主や巫女に神を降ろしてお告げをしたり、術を使って人や妖怪を退治するなどということをやっていたらしい。
 これは魑魅魍魎が跋扈する平安京という場所や時代に合うものだったという言い方ができる。恨みを持って怨霊となった人を御霊として祀る御霊信仰が盛んになった時代とも重なる。
 晴明もまさにそういった術者のイメージが定着しているのだけど、晴明は国家公務員のような立場なので、民間で術を披露したといった事実はなかったのではないかと思う。
 官人だった晴明に対して一般の陰陽師だった蘆屋道満(あしやどうまん)が戦いを挑んで敗れたという話がどこまで事実なのかは分からない。
 ただし、本来、天皇に直接会って奏上できるのは従五位下の陰陽頭に限られていたのが、陰陽頭でもない晴明が天皇に会うことができたということはかなり特例的なことだったはずで、ただの一官人というのではなかったのだろう。何らかの術を使うか何かして目に見える結果を出さなければこうして名を残すこともなかったはずだ。
 晴明が陰陽師かどうかという点についても何とも言えない。自ら名乗ったことはないように思うけど、一般には陰陽師といった方が通りが良かったというのはあっただろう。

晴明と五芒星と桔梗

 晴明がシンボルマークとしたことで有名になったもので五芒星がある。
 紀元前3000年頃のメソポタミアですでに使われていたというほど古い図形なのだけど、晴明は桔梗の花をモチーフに考え出したとされ、晴明の五芒星は晴明桔梗とも呼ばれる(晴明の生前には使っていないという説もある)。
 これは陰陽五行説の木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表したものとされる。
 志摩地方の海女さんが御守りとして身につけたのがセーマンドーマンというもので、五芒星と九字紋の図形を象ったものだ。
 五芒星は一筆書きで最初の場所に戻ってこられることから無事に海から戻ってこられるようにという願掛けをしたものともいわれる。
 九字紋は横5本・縦4本の九線からなる格子形で、これは九字護身法を表したものだ。
 ドーマンという呼び名からしても蘆屋道満から来ているに違いない。セーマンは晴明のことだろう。

平安時代から神話化され江戸時代に広く知られるように

 生前からも宮中ではよく知られていた晴明だったけど、一般に知られるようになるのはやはり死後に書かれた歴史物や文学による。
 平安後期に書かれた歴史物語『大鏡』には早くも登場する。
 花山天皇がだまされて退位して出家しようとしているのを察知した晴明が式神を使って止めようとしたが間に合わなかったという話だ。
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、『平家物語』などでも晴明の逸話が紹介されている。
 現在につながる晴明の人物像は『蘆屋道満大内鑑』によるところが大きい。江戸時代中期に初代竹田出雲が書いた浄瑠璃で、安倍晴明の親子の情愛や蘆屋道満との対決などが描かれ、江戸でヒットしたことで晴明は広く大衆に知られることとなった。
 近年でいうと、夢枕獏の『陰陽師』が晴明ブームの火付け役となったのを覚えている人は多いだろう。映画で野村萬斎が演じた晴明像がすっかり定着した感もある。
 晴明自身の著作となると確実なものは『占事略決』があるのみで、著述にはあまり熱心でなかったようだ。

安倍から土御門へ

 平安時代から鎌倉時代にかけて、賀茂家も安倍家も分裂して、互いに地位争いなどが起こって混乱する。
 安倍氏嫡流は室町時代に土御門と名を変え、一時は若狭国(福井県)に移り住んだのが家康によって京都に呼び戻され、江戸時代は土御門家が陰陽道全般を支配するようになる。
 ただし、江戸時代中期には晴明から続いていた男系の血流は途絶え、分家は倉橋家を名乗るようになった。
 女系の血脈でいうと晴明の血筋は現在の皇室につながっている。
 明治政府は陰陽道を迷信として陰陽寮は解体されたものの、土御門家と倉橋家は子爵に叙せられている。
 土御門家の末裔は戦後、福井に天社土御門神道本庁を創設するも、土御門家はすでに神道とは関わっていないという。
 陰陽道やそれに類するものは民間に今も根強く残っており、安倍晴明の末裔を名乗る自称陰陽師もいる。

死後すぐに神として祀られる

 安倍晴明を祀る神社は全国にいくつかある。その中で総本社といえるのが京都市上京区にある晴明神社(web)だ。
 1005年に晴明が没すると一条天皇は晴明は稲荷神の生まれ変わりだとして、一条戻橋の北西にあった屋敷の跡に晴明を祀る神社を建てさせたのが始まりとされる(1007年)。
 なので、当初は稲荷神として祀られたということなのだろう。母親が狐という話もこのあたりと関係していそうだ。当時の境内はかなり広大だったと伝わっている。
 境内地の多くは秀吉によって没収され、現在のように整備されたのは戦後の昭和25年(1950年)のことだ。
 平成の晴明ブームで参拝者が爆発的に増え、現在はすっかり人気神社となっている。
 フィギュアスケーターの羽生結弦選手が晴明をテーマにして平昌五輪で演じたときも晴明神社は話題になった。羽生結弦選手も参拝に訪れている。
 その他、晴明出生地とされる大阪市阿倍野区の安倍晴明神社(web)や奈良県桜井市の安倍文殊院などがあり、名古屋には千種区に名古屋晴明神社がある。
 ここは晴明の一族が一時左遷されて住んだ土地という言い伝えがあり、その跡地に祀られたのが始まりとされている。

安倍晴明とは何者なのか

 結局のところ、安倍晴明というのはどういう人だったのかはよく分からない。84歳という当時としては異例の長寿も神秘性につながったのだろう。人の一生というのはときに本人の思惑を超えてひとり歩きする。一生を作品にたとえれば、そういうこともあると納得できる。
 本人に会ってみれば意外と普通のおじいちゃんだったかもしれない。五芒星をどうして思いついたんですかと訊ねたら、桔梗の花が好きだったからという答えが返ってきても不思議はない。
 初夏になると京都の晴明神社には桔梗の花が咲く。イメージの中の若き晴明には桔梗の花の色がよく似合うように思う。

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