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ベンザイテン《弁才天》

ベンザイテン《弁才天》

『古事記』表記 
『日本書紀』表記 
別名弁財天
祭神名 
系譜 
属性七福神
後裔 
祀られている神社(全国)竹生島神社、江島神社、厳島神社、天河大弁財天社、黄金山神社、銭洗弁財天宇賀福神社、など
祀られている神社(名古屋)弁財天 奥の院(守山区)

ルーツはヒンドゥー教の女神

 ヒンドゥー教の女神サラスヴァティ(Sarasvati)が仏教に取り込まれて仏教の守護神、天部に組み込まれたのが弁才天だ。
 仏教には如来、菩薩、明王、天という4つの種類(段階)があって、天部には帝釈天、持国天、毘沙門天、大黒天、韋駄天、金剛力士、鬼子母神などがいる。
 サラスヴァティは漢字で薩羅薩伐底と書き、サラスは水、ヴァティは持つを意味する。サラスヴァティ川という幻の川を神格化したものとされ、川の女神とされた。
 流れる川が転じて言葉や弁舌、音楽などの女神となり、後に芸術や学問の女神という面も併せ持つようになる。
 ヒンドゥー教の創造神ブラフマーの妻でもある。

当初は八本の手に武器を持つ戦の女神だった

 弁才天については4世紀頃に成立したとされる仏教経典のひとつ『金光明経』(こんこうみょうきょう/スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)に書かれている。四天王、弁才天、吉祥天などの天部の神たちが国を守るといった内容だ。
 日本には曇無讖が5世紀前半に漢訳した『金光明経』が伝わっていたようだけど、8世紀に義浄が漢訳した『金光明最勝王経』を聖武天皇が写経させて全国に配布したことで広く知られるようになった。
 741年に全国に国分寺が建立された際、それらは金光明四天王護国之寺と称された。
『金光明経』は『法華経』に比べるとマイナーではあるけど、『仁王経』とともに護国三部経のひとつとされている。
『金光明最勝王経』の「大弁才天女品」の中で、弁才天は弁才、智恵の神としながらも、8本の手には、弓、矢、刀、矛、斧、長杵、鉄輪、羂索を持つとある。仏教や国の守護神とされたためで、日本でも当初は戦いの神という性格が強かった。
 そのため一面八臂(いちめんはっぴ)の姿で描かれることが多かった。奈良時代のものとされる東大寺法華堂(三月堂)の八臂立像は現存する最古の弁天像だ。
 平安時代はほとんど仏像は造られなかったようなのだけど、よく知られるものとしては比叡山延暦寺の三面大黒天像がある。正面が大黒天、、左が弁才天、右が毘沙門天(多聞天)という三面の顔を持ち、手が六本の三面六臂という珍しい姿をしている。延暦寺を建てるときに最澄が彫ったとされる像だ。
 この像を見た豊臣秀吉が立身出世を願い、自らも三面大黒天像を所有して祈願したという話も伝わっている。
 鎌倉時代の作例としては、源頼朝が奥州の藤原秀衡を征伐する際、八臂弁財天像を造らせて戦勝祈願をしたとする弁天像が江島神社に伝来している。
 現在の我々がイメージする手が二本で楽器を持って座っている姿は、密教の世界観を描いた胎蔵界曼荼羅の中の姿が元になっているとされる。ただ、このときは天部ではなく菩薩の姿をしているので厳密には別物かもしれない。
 京都市の白雲神社に伝わる二臂坐像は鎌倉時代初期のものとされている。現存する最古の二臂坐像の弁才天像で、琵琶の名手として知られる太政大臣・藤原師長が信仰していた像だという。
 その他、大阪府の高貴寺や鎌倉市の鶴岡八幡宮にも二臂坐像が伝わっていることから、鎌倉時代には二臂坐像に変わっていったと考えられる。
 ただ、作例としてはごく少なく、弁才天像が多く造られるようになるのは江戸時代に入ってからのことだ。

市杵嶋姫と習合して美を獲得

 中世の神仏習合思想の中で弁才天は宗像三女神のひとり市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)と習合した。素戔男尊(スサノオ)と天照大神(アマテラス)の誓約(うけひ)によって生まれたとされる女神で、宗像社(宗像大社)で祀られた。
 三女神の中でどうして市杵嶋姫が弁才天と習合したのかはよく分からない。何故、湍津姫(タギツヒメ)や田心姫(タゴリヒメ)ではなかったのか。どういうわけか、三女神の中では市杵嶋姫が一番の美人ということになっているから、そのこととも関係があるだろうか。
 宗像社の沖津宮、中津宮、辺津宮のどこで三女神を祀ったかは時代によっても違って諸説あるのだけど、航海の神というのが一般的なイメージだ。海という点では水とも関係があるとはいえ、弁才天の本来のイメージと宗像三女神のイメージは重ならない。
 瀬織津姫と習合する思想も一部にあったものの、あまり広がらなかった。
 上にも書いたように、日本に伝わってきた当初は八臂に武器を持つ戦いの女神だった。ただ、『金光明最勝王経』には知恵や富を授ける神として描かれていることから、だんだんそちらにイメージが変わっていったようだ。二臂に楽器を持つ姿として描かれるようになるのは鎌倉時代以降のようだけど、それが一般にも定着したのは近世に入ってからだ。

何故か蛇のおじいちゃんとも習合

 習合したといえば、いつの頃からか宇賀神(うがじん/うかのかみ)とも習合した。
 宇賀神は稲荷神としても知られる宇迦之御魂神(ウカノミタマ)の「ウカ」から来ているという説があるのだけど、穀物神と弁才天はイメージが重ならないから違うのではないか。
 宇賀神は体が蛇で顔がおじいさんの姿で描かれることから多いことからすると、サンスクリット語で蛇を意味するウラガ(uraga)からウラガガミと呼ばれ、それに宇賀神という字が当てられてウガジンとなったという説の方がしっくりくる。
 宇賀神と弁才天が習合した結果、頭の上に宇賀神を乗せた弁才天像も造られるようになった。
 宇賀弁才天像は、滋賀県琵琶湖の竹生島にある宝厳寺などにある。

七福神の紅一点に選ばれて有名に

 弁才天が広く庶民にも知られるようになったのは、七福神の一員となって以降のことだ。
 七福神信仰が始まったのは室町時代あたりとされ、江戸時代になって徳川家康のブレーンだった天海が広めたとされる。
 恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天という組み合わせは実はけっこう斬新で、仏教だけでなくヒンドゥー教や道教、神道の神々が集められた七神様だ。ある意味、オールジャパンといえるかもしれない。
 ただ、七神様の顔ぶれが入れ替わることはけっこうあって、メンバーが固まったのは近代のことだ。
 七福神は福をもたらすめでたい神ということで、弁才天は弁財天と表記されることが増え、財(銭)の神様という一面も持つようになった。
 七福神として描かれる中で、琵琶を持った姿がすっかり定着することになる。

日本三大弁天とは

 以上のような変遷を辿った弁才天は様々な御利益がある神とされ、現代でも広く信仰されている。芸事の神ということで芸能人や芸に関する人たちが参拝する例も多い。美の女神でもあるので、どちらかというと女性向けの神様ということができるかもしれない。
 よく言われるのが、カップルで参拝すると弁才天が焼きもちを焼いて別れるというジンクスというか都市伝説だ。江ノ島の江島神社が特に有名だ。
 ちなみに、日本三大弁天というと、竹生島の宝厳寺・竹生島神社、江ノ島の江島神社、広島の大願寺・厳島神社が挙げられることが多い。
 その他、弁才天で有名なところとしては、奈良県天川村の天河大弁財天社、宮城県石巻市の金華山・黄金山神社などがある。
 鎌倉の銭洗弁財天もよく知られている。あそこの正式名は銭洗弁財天宇賀福神社で、宇賀神の神社だ。
 愛知県蒲郡市の竹島にある八百富神社も弁才天を祀る神社で、かつては竹島弁天と呼ばれていた。日本七弁天を称している。

神仏分離で市杵嶋姫に

 明治の神仏分離令を受けて、それまで弁才天を祀っていた神社は市杵嶋姫を祀るとしたところが多い。天河大弁財天社や竹生島神社、厳島神社もそうだ。江島神社は宗像三女神を祀るとした。
 名古屋の弁才天というと、まず思い浮かぶのは、昭和区の川原神社だ。ここは『延喜式』神名帳にも載る式内社とされる神社なのだけど、境内社の弁才天社の方が有名なくらいで、川名の弁天様と呼ばれている。弁才天像は明治の神仏分離令で太平寺に移された。
 江戸時代までは多くの神社の境内社として弁才天が祀られていた。挙げればきりがない。
 ただ、弁才天を祀る社が独立して残った例は少なく、中村区の厳島社(太閤)くらいかもしれない。
 守山区弁天が丘の弁財天 奥の院はどこの奥の院なのかよく分からないのだけど、弁財天の名が残る数少ない例だ。
 弁才天/弁財天像を祀っている寺はけっこう多い。名古屋でいうと、千種区の桃巌寺などにある。

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