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ドウソジン《道祖神》

ドウソジン《道祖神》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名 道俣神、岐神、塞神、八衢神、行神、路神、道神、勝軍神、遮軍神、守公神、幸神、石神、船戸神、障神、他
祭神名  
系譜  
属性  
後裔  
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋) 洲嵜神社

多くの別名を持つ

 道祖神の概念、もしくは信仰は幅広い。それゆえ呼び名も多い。
 道俣神、岐神、塞神、八衢神、行神、路神、勝軍神、遮軍神、守公神、幸神、石神、船戸神、障神といった名前で呼ばれるものがすべて道祖神というのであれば、道祖神はひとつの概念ではなく多様な概念の総称と考えた方がよさそうだ。
 しかし何故、道”祖”神なのか? 祖とは何を指しているのだろう?

関東や東北の山間部に多い

 現代人の我々が道祖神というと、道端に祀られた石仏のようなものを想像しがちだ。旅人の守り神と思っている人も多いと思う。特に有名なのが信州安曇野の石像道祖神だろう。安曇野市だけで400体以上あり、松本市でも400体近くあるという。その他、群馬県、山梨県、静岡県などに多く、東北地方にも見られる。西日本では奈良県明日香の石造物は飛鳥時代の道祖神と考えられている。
 いずれも山間部が多く、平野や海沿いには少ないという傾向がある。
 余談だけど、「勝手に観光協会」でみうらじゅんが作詞作曲して安齋肇が歌った長野県のご当地ソング(と称しているだけ)「愛の双体道祖神」(YouTube)はシリーズ屈指の名曲だ。
 長野県の道祖神は男女一体の姿として彫られているものが多く、性的な要素や男女和合、子孫繁栄を願うものという一面がある。さらに古い形としては男性器を模したものもあったとされる。

塞ぐ神という概念

 集落の入口や分かれ道に道祖神が祀られたのがいつ頃からかは定かではない。村の内と外を分ける境界に置くことで悪い物が村の外から内に入ってこないようにするためだったのだろう。
 旅人の守り神とされたのはそれほど古い時代ではないはずだ。そもそも、中世以前の村人が村を離れて旅をするということは稀だったはずだ。
 別名のひとつ「塞」は「さい」や「そく」と音読みし、訓読みでは「ふさ」ぐだ。道を塞ぐ神という概念や祈願としての道祖神も確かにあっただろう。
 賽の河原というと、死んだ子供が行くという三途の川の河原のことをいう。賽の河原に両親が小石を積み上げるのは、子供の供養のために塔を作るためで、そこに鬼が現れて石を崩してしまう。だから地蔵菩薩が子供を救うという考えがあり、そういう経緯で道祖神と地蔵菩薩が習合していった。
 道を塞ぐというと、伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の黄泉の国での出来事が連想される。死んだ伊邪那美を追いかけて黄泉の国へ行った伊邪那岐は、変わり果てた伊邪那美の姿を見て逃げ出す。追いかけてきた伊邪那美に対し、黄泉の国とこの世の境の黄泉比良坂に巨大な千引岩を置いて道を塞いだ。
『古事記』ではこの岩を黄泉戸大神、泉門塞之大神といい、『日本書紀』は泉門塞之大神、道返大神といっている。
 岩を神に見立てていることからしても、道祖神は石神といってもいいかもしれない。
 道祖神がイザナギ・イザナミのこととされるのはこの話が元になっている。
 見立てということでは猿田彦大神と道祖神が習合している。それは、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天降ろうとしたとき、猿田彦が天八衢(あめのやちまた)で道案内をするために迎えたという日本神話から来ている。
 道祖神の別名のひとつ、八衢神がそれに当たる。猿田彦の妻となった天鈿女命(アメノウズメ)とともに男女の道祖神は猿田彦と天鈿女とされることも多い。
 中世に遊女が信仰した百太夫(ももだゆう/ひゃくだゆう)とも習合したとされ、百太夫は近世において傀儡師(くぐつし)が神としたとされる。各地を渡り歩くこれらの人々が信仰したことで旅の神とされたということもあったのだろう。
 百太夫は兵庫県の西宮神社(web)など、西日本で祀られることが多い。

起源ははっきりしない

 起源についてはよく分かっていない。中国から伝わったとも、道教から来ているともいわれるも、定かではない。
『和名類聚抄』(平安時代中期の辞書)や『今昔物語集』に、中国に旅好きの人がいて旅の途中で死んで道祖神として祀られたという話を載っている。
 また、『平安遺文』や『続日本紀』(797年)には地名や人名として道祖、道祖王が登場しており、『宇治拾遺物語』(13世紀前半の説話物語集)には道祖神(だうそじん)が出てくる。
 具体的に村や道に石像としての道祖神が置かれるようになるのは江戸時代に入ってからで、中期以降に増えていった。
 それは人の移動が多くなったことと無関係ではないだろう。
 村の安全や子孫繁栄だけでなく、五穀豊穣なども願われたようで、子供の守り神でもあったことから道祖神の祭りでは子供が中心となった。
 小正月の左義長は道祖神の祭りとされる。どんど焼きともいうように、大きな火を焚いて門松や注連縄飾りを燃やし、その火で焼いた餅を食べたりする。
 このとき、道祖神を一緒に燃やす風習もあったようだ。守り神であるゆえに、悪霊が憑いた神を焼いて浄化するという意味合いもあっただろうか。ある種の人形、身代わりということだろう。
 道祖神の祭りでいうと、神奈川県真鶴町や長野県野沢温泉村の道祖神祭が知られている。かつては山梨県でも甲府道祖神祭礼が行われていた。

名古屋における道祖神

 名古屋の洲嵜神社は石神を祭神としており、これを道祖神といっている。道祖神を神社で祀ることは全国的に見ても珍しい。
 ここでの道祖神は猿田彦命と天鈿女命のこととしている。
 洲嵜神社は他に布都御魂を祀っていることからすると、物部の石神との関係から来ているのではないかと思う。
 昭和区御器所のいぼ神様も一種の道祖神といえるかもしれない。

芭蕉は道祖神の誘いで旅に出る

 松尾芭蕉は「奥の細道」の冒頭でこんなことを書いている。

 そぞろ神の物につきて心を狂はせ 道祖神の招きにあひて取るもの手につかず

 旅に出たい気持ちに取り憑かれ、道祖神の誘いもあって何も手につかなくなってしまったというのだ。
 ここでの道祖神は旅の神となっている。江戸時代前期を生きた芭蕉にとって道祖神とはそういうものだったのだろう。江戸に道祖神が多くあったという話は聞かないので、関東から東北にかけての道々に祀られた道祖神の姿を芭蕉は思い浮かべていたに違いない。

とても日本人らしい神

 道祖神とは何かを簡単に説明するのは難しい。ただ、日本人ならなんとなく理解できる。道の神、境界の神、旅の神、そういったものというぼんやりした共通イメージがあれば、道祖神は有効に機能する。現代にも残るとても日本らしい神様という言い方ができるだろう。

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