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オンタケオオカミ《御嶽大神》

オンタケオオカミ《御嶽大神》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名  
祭神名  
系譜  
属性  
後裔  
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋)  

御嶽山に対する山岳信仰が始まり

 御嶽山は標高3,067メートル、長野県木曽郡と岐阜県下呂市・高山市にまたがる独立峰だ。
 長らく死火山もしくは休火山と思われていたこの山が昭和54年(1979年)に突如噴火した。以降、活火山という認識にあらたまったものの大きな噴火というのはあまり想定されていなかった。平成26年(2014年)の大噴火は関係者を驚かせ、多数の犠牲者を出してしまった。
 御嶽山を霊山として信仰の対象とするようになったのがいつ頃からかは分からない。3000メートルを超える独立峰だから、間近で目にすれば畏怖を覚えずにはいられなかったはずで、縄文時代やそれ以前に遡るとも考えられる。
 古くは王嶽(おうたけ)や王御嶽(おうみたけ)と呼ばれ、それが縮まって御嶽(おんたけ)になったというのが定説として語られる。
 御嶽(御岳)と称する山や呼び名は全国にいくつかあり、御嶽神社(みたけじんじゃ)というと奈良県吉野の吉野金峰山寺に端を発する信仰で、紛らわしいので御嶽神社(おんたけじんじゃ)は木曽御嶽と称することが多い。その他、琉球で御嶽というと「うたき」と読み、祭祀を行う神聖な場所を意味する。
 御嶽山は「おんたけさん」と読むのだけど、地元民の気持ちの中では「御嶽さん」とさん付けで呼んでいる感覚が強い。

初登頂は飛鳥時代というけれど

 御嶽山に初登頂したのは伝説の修験者、役小角で702年のこととされている。
 しかし、役小角は634年生まれで701年に没したと伝わっているので702年に御嶽山に登るのは無理だ。699年に人々を惑わせたという罪で伊豆島に流され、大宝元年の701年に大赦があって故郷の茅原に戻ることを許され、箕面山瀧安寺(大阪府箕面市/web)の奥の院・天上ヶ岳で入寂したとされる。
 役小角伝説は日本各地に残っていてどこまで本当なのかはよく分からない。
 702年に信濃国司の高根道基が山頂の剣ヶ峰に御嶽神社を創建したという話があり、こちらの方は可能性がある。
 774年、国内に疫病が流行り、信濃国司の石川朝臣望足が祈願のために国常立尊、大巳貴命、少彦名命を祀ったというのだけど、これもちょっと信じられない。かつての祭神は日ノ権現とも呼ばれていたというから、こういった日本神話の神が当てはめられたのは後世のことで、最初は御嶽山の神である御嶽大神を祀るといった意識だったのではないかと思う。国常立尊、大巳貴命、少彦名命などというのは、早くても中世縁起が作られるようになってからの話だろう。
 925年に白河少将重頼が登拝して奥社の社殿を建て、928年に醍醐天皇の勅使が黒沢口に里宮を建造、1161年に後白河天皇の勅使が登山参拝したと社伝は伝える。
 これらの出来事と前後して、修験者が御嶽山に入って修行を行い、修験道場として発展していくことになる。

中世の御嶽山

 中世を通じて御嶽山は神聖な山ということで一般の登山は禁じられていた。
 源平合戦の折、木曾義仲が打倒平氏を祈願するために登拝したとも、鳥居峠から遙拝したともいわれる。おそらく遙拝というのが正しいのだろう。
 室町時代になると修験者が修行のために多く登るようになった。ただし、そのためには麓での75日または100日の厳しい精進潔斎が義務づけられており、それを行ったものだけが年に一度の登拝を許された。
 戦国時代には、武将が戦勝祈願のために登拝することもあった。
 円空仏で知られる江戸時代前期の円空も登拝した。近辺の寺院には多くの円空仏が残されている。
 江戸時代の中期になって、一般の人たちも登拝したいという希望が増えた。しかし、75日や100日の精進潔斎というのは現実的ではなく、これらの声を受けて立ち上がったのが覚明行者だった。

覚明行者が大衆化

 覚明行者は1718年に尾張国春日井郡牛山村に生まれたとされている。しかし、生まれについては異説もある。
 幼名を源助といい、のちに仁右五衛門に改名したとされる。幼少期は新川村土器野新田の農家で養われたというのだけど、前半生についてははっきりしない。
 覚明行者については御嶽社(枇杷島)御嶽神社(高針)のところで書いたのでここでは繰り返さない。
 江戸時代の御嶽山や御嶽神社は、黒沢村神主の武居氏と王滝村神主の滝氏が管理していた。
 覚明行者は軽精進による一般参拝者の登拝の許可を武居氏に談判するも断られ、尾張藩木曽代官の山村氏に掛け合っても相手にされないのでついにしびれを切らして無許可のまま信者約80名を連れて山頂登拝を強行する。それが1785年のことだった。
 当然のように覚明行者は捕まり拘束された。
 それでも懲りなかった覚明行者は翌1786年にも同志たちともに無断登拝を行い、登山道の改修などを行った。その際、病気になりそのまま御嶽山に葬られることになる。黒沢口九合目の覚明堂宿舎上の岩場に今も眠っている。
 その後も覚明行者の遺志を継いだ同志達が登山道整備を続け、ついには武居家も折れて、代官の山村家に許可を求め、1792年正式に軽潔斎による一般の登拝が認められることになった。
 入山料200文を払って6月14日から6月18日までの期間に登拝ができた。
 登山客が訪れるようになったことで麓の黒沢村が潤うようになったのも許可が下りたひとつの要因とされる。
 王滝村側は、1792年に武蔵国秩父郡大滝村出身の普寛行者が王滝口を開いた。その後、普寛行者と弟子達が江戸で御嶽講を組織して布教活動を行ったことで江戸にも御嶽信仰が広まることになる。
 こうして御嶽山は修験の霊山から一般大衆の山へと変貌していくことになった。
 女人禁制が解けたのも早く、明治5年の太政官通達による神社仏閣地の女人禁制以前より七合目までは女人でも登ることができた。
 御嶽講は尾張や木曽、関東のみにとどまらず全国規模となり、幕末には毎年数十万人の登拝者が訪れたという。

御嶽信仰は神道系

 修験の山岳信仰は仏教的な要素が強いものだけど、御嶽山に関しては神道の傾向が強かった。初めから国常立や大己貴が意識されていたとは思わないけど、御嶽山山頂にあったのが御嶽神社ということもあり、仏教の要素は薄かった。
 明治の神仏分離令を受けても大きな変化はなかったと思われる。ただ、御嶽神社の祭神を正式に国常立尊、大己貴命、少彦名命としたのはやはり明治以降ではなかったかと思う。それまでは御嶽大神という意識だっただろう。
 御嶽山には5つの火口湖があり、その中で最大の三ノ池には龍神が棲むとされた。今でも三ノ池畔には荒神と白龍王初春姫大神などが祀られている。

御嶽講から御嶽教へ

 明治になってそれまでバラバラに活動していた御嶽講をひとつにまとめるべく、御嶽教を設立したのが下山応助だった。
 幕末に江戸で油問屋を営んでいたというも詳細は不明。明治6年(1873年)に御嶽教会を結成し、1890年に大成教会と合同して教会長を辞す。1892年、御嶽教が一派独立するとなったとき突然行方不明になってしまい、その後の消息は不明。
 御嶽教はいわゆる神道十三派のひとつとして認められ、現在に到っている。
 ただ、少しややこしいのは、御嶽教は奈良県奈良市に教団本部を持つ組織で、それとは別に長野県木曽町三岳に総本庁を持つ木曽御嶽本教があるという点だ。
 木曽御嶽本教の初代の管長は黒沢御嶽神社宮司の武居誠なので、こちらは尾張の覚明一派で、御嶽教は江戸の普寛派が元になっていると考えていいだろうか。
 神社としては、奥社本宮(長野県木曽郡木曽町剣ヶ峰頂上)、里社本社(長野県木曽郡木曽町)、里社若宮(木曽郡木曽町三岳)、奥社本宮・王滝口(長野県木曽郡王滝村御嶽山頂上)、里宮(長野県木曽郡王滝村)がある。
 御嶽講は現在、いくつもの小グループに分かれていて、名古屋近郊でいうと福寿講、心願講、日出講、宮丸講などがある。これらは覚明系の講社だ。講社は半ば独立した形で活動しているようで、その実体は外部からでは分かりづらい。講社などについては御嶽教東福寿教会のページに書いた。

由緒正しい信仰

 こうして歴史を辿ってみると、御嶽信仰というのは由緒正しい信仰だということが分かる。 しかし、やはり御嶽関係はどこか怪しさというか近寄りがたさみたいなものを感じるという人も少なくないだろう。御嶽神社に行くとよくある霊神碑などもその要因のひとつといえる。
 御嶽信仰では死ぬと魂は御嶽山に行って霊神となるという考えがある。霊神として人々を守り、霊神として祀られる。王滝口と黒沢口の山道だけでも2万基を超える霊神碑が林立している。それは一種独特で、ある種の恐怖心を覚える。
 御座と呼ばれる神憑りによる占いや病気治療などは現在でも行われていて、それも新興宗教的な信仰と思われる原因となっている。
 白装束の信者達が列をなして御嶽山に登っていく光景も、やはり怪しさを醸している。
 しかし、そういうこともひっくるめて御嶽信仰は大丈夫、怪しくないと言っていい。霊神碑が建ち並ぶ御嶽神社も怖くない。まあ、夜中に日進の岩崎御嶽山に行けるかといわれたら私は行けないけど。

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