最澄が比叡山に祀ったが始まりというけれど
30の神様を集めて一ヶ月30日間を日替わりで毎日守護してもらおうという思想ならびに信仰。 大陰暦は30日もしくは29日しかなかったので30神様で足りた。太陽暦になってからは違う神様が追加されている。 天台宗を開いた最澄(767-822年)が比叡山に祀ったのが始まりとされる。 それが本当だとすると最澄がどこからそういった発想を得たのかということが記録として残っているはずだけどそれがない。最澄に師事した円仁(794-864年)が比叡山の横川で法華経の如法写経を行い、経典を根本如法堂に安置したとき、十二番神が示現して祀ったという話があるから、それが後に最澄が三十番神を祀ったが始まりという伝承になってしまったのではないかと思う。 当初、法華経の守護神として位置づけられた十二番神を日蓮が取り込んで日蓮宗の守護神ともなった。その過程のどこかで十二番神から三十番神になったのだろうけど、平安時代の終わりには三十番神信仰が一般に広がっていたというから、日蓮より前に三十番神は確立していたようだ。 建長元年(1249年)、日蓮28歳のとき、比叡山横川の定光院で法華経を読誦していると三十番神が現れたので、日蓮宗に取り込んで祀ったという話がある。 しかし、これも後付けの話で、日蓮は卜部兼益に神道を学んでおり、卜部兼益から三十番神の思想を伝えられたというのが実際のところではないだろうか。 あるいは、日蓮宗における三十番神の信仰は、日像(1269-1342年)が京都で布教を始めた永仁二年(1294年)以降という説もあるので、そちらが本当かもしれない。 三十番神は法華経守護のものだけでなく10種類ほどあったというから、必ずしもルーツはひとつではないのだろう。
三十番神のメンバー紹介
明治から大正にかけて刊行された『古事類苑』には法華経守護、天地擁護、内侍所守護、王城守護、吾が国守護、禁闕守護、如法守護、法華守護、仁王経守護、如法経守護の10種類が載っている。 仏教系、神道系の三十番神のうち、神道系は吉田神道が発祥だと吉田兼倶は主張した。 鎌倉時代には天皇守護のため宮中でも祀られるようになっていた。禁闕守護と呼ばれるもので、よく知られいるのがこれだ。書き出してみると以下のようになる。
1日 尾張熱田 熱田大明神 2日 信濃諏訪 諏訪大明神 3日 摂津広田 広田大明神 4日 越前気比 気比大明神 5日 近江気多 気多大明神 6日 常陸鹿嶋 鹿嶋大明神 7日 山城北野 北野大明神 8日 山城大原江文 江文大明神 9日 山城貴布禰 貴船大明神 10日 伊勢伊勢 伊勢天照皇太神 11日 山城石清水 石清水八幡大菩薩 12日 山城賀茂 賀茂大明神 13日 山城松尾 松尾大明神 14日 山城大原野 大原野大明神 15日 大和春日 春日大明神 16日 山城平野 平野大明神 17日 近江大比叡 大比叡大明神 18日 近江小比叡 小比叡大明神 19日 近江聖眞子 聖眞子権現 20日 近江客人 客人大明神 21日 近江八王子 八王子権現 22日 山城稲荷 稲荷大明神 23日 摂津住吉 住吉大明神 24日 山城祇園 祇園大明神 25日 山城赤山 赤山大明神 26日 近江建部 建部大明神 27日 近江三上 三上大明神 28日 近江兵主 兵主大明神 29日 近江苗荷 苗鹿大明神 30日 備中吉備津 吉備津大明神
有名どころが集められてはいるものの、山城、近江、大和などに偏っている。比叡山発祥ということで、地元の神を主に呼んだということなのだろうけど、やや納得できない感じもある。 地方の神で呼ばれているのは、伊勢の天照や熱田、諏訪、気比、鹿嶋といったところで、杵築の大國主などは呼ばれていない。鹿嶋がいるのに香取がいなかったりもする。九州や東北からは呼ばれておらず、すべて武神かというとそうでもなく、どうしてこの顔ぶれだったのかという疑問が残る。
マイ三十番神を作ってしまえばいい
こうなったら自分で勝手にマイ三十番神を決めてしまうというのはどうだろう。基準はないのだから、自分が好きな神様を30柱集めて三十番神を作ってしまってもかまわないはずだ。私も実際にやってみたら、面白いけど難しくもあった。私ならこんな顔ぶれを選びたい。 日本武尊、須佐之男、天照大神、伊邪那岐、伊邪那美、菅原道真、安倍晴明、天鈿女、手力雄神、天火明、木花咲耶、瀬織津姫、市寸島比売、天香香背男、牛頭天王、蛇毒気神、猿田彦、武内宿禰、饒速日、罔象女、龍神、秋葉三尺坊、鸕鶿草葺不合、保食神、大山祇、菊理媛、塩土老、事代主、綿津見、弁才天。 バラエティーに富みすぎていて脈略がないけど、多彩な顔ぶれが揃っていて毎日飽きない。 海洋堂(web)かイスム(web)あたりが三十番神フィギュアを作ってくれないだろうか(マイナーすぎて売れないだろうけど)。 江戸時代あたりまでは三十番神の神像もよく作られていて、絵にも描かれた。長谷川等伯も「三十番神図」を残している。
三十一番目が必要に
明治元年(1868年)、神仏判然令によって神社で三十番神を祀ることは禁じられた。結果、三十番神の神社はなくなり、日蓮宗などの寺で祀られるだけとなった。 明治5年(1872年)に太陽暦が採用されると31日ができてしまったため、三十一番神を追加しなくてはならなくなった。そこで五番の善神というものが加えられることになる。これは薬王菩薩、勇施菩薩、多聞天、持国天、鬼子母神、十羅刹女などとされた。
名古屋に残る三十番神信仰
名古屋の三十番神信仰についていうと、それほど古いものはないようで、江戸時代に祀られたものが多い。 現存する三十番神の神社としては、千種区茶屋ヶ坂の三十番神社と、守山区中志段味の参拾番神社がある。明治の神仏判然令を逃れたのか、戦後になって復活させたものなのかはよく分からない。 熱田区二番町の熱田社は、もともと三十番神だったのを明治になって熱田社にあらためたものだ。 港区の新田地区に三十番神が境内社として数社ある。この地を開発した茶屋家が祀ったものだ。 三十番神の信仰は今もわずかに残っている。
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