キーパーソンなのに知名度は低い
幕末から明治維新に到る過程で重要な役割を果たしたキーパーソンのひとりなのに、一般的な知名度は低い。派手な活躍をしたヒーローや悲劇の主人公といったタイプでないため、物語の登場人物としては魅力に欠けるところがある。そのため、小説や時代劇で描かれることがあまりなく、知名度の低さにつながってしまっている。本人はそれを残念がっているかどうかは分からないけど。
高須四兄弟の実質的長男
江戸時代後期の1824年、江戸四ッ谷の高須藩邸で生まれた。 高須藩は尾張藩の支藩(御連枝)で、父親は美濃高須藩主の松平義建。母親は水戸藩主・徳川治紀の娘で義建の正室の規姫。 慶勝は次男ながら長男が早死にしたため、実質的に長子の扱いだった。この兄弟は出来が良かったようで、後に弟の茂徳は尾張藩主、松平容保は会津藩主、松平定敬は桑名藩主となり、高須四兄弟と称された。 幼名は秀之助。元服後は松平義恕(まつだいらよしくみ)を名乗った。
尾張藩と将軍家との確執の歴史
尾張藩は5代藩主の五郎太がわずか2歳で早世してしまっため(1713年)、その後相続問題で幕末までゴタゴタが続くことになる。 五郎太の叔父で3代藩主綱誠の11男の継友が6代藩主となったものの、予想外の藩主に舞い上がってしまったのか、藩主としての振るまいがなっておらず評判が悪かった。 この頃、将軍家でも相続問題が起きており、継友の出来がよければ尾張藩から将軍が出ていた可能性が高かった。結局、紀州藩から迎えられた吉宗が8代将軍となった。 継友は後継者がいないまま39歳で死去したため、その弟の宗春(3代綱誠の19男)が養子に入って尾張藩を継ぐことになる(第7代藩主)。 質素倹約をよしとする将軍吉宗に対し、宗春は徹底した規制緩和を行った。江戸だけでなく京や大坂も火が消えたようになっていた時期、宗春の尾張藩だけは浮かれ騒いでいたので当然ながら吉宗に目を付けられ、それでもまったく改めようとしない宗春はついに隠居謹慎を言い渡されてしまう。死ぬまで許されることはなく、墓には罪人であることを示す網が長い間掛けられていた。 それを受けて2代藩主光友の孫で美濃高須藩主だった宗勝が第8代藩主となり、その次男の宗睦(第9代)が継いだ。 しかし、この後、謎の不審死が続く。宗勝の長男、次男が早世し、高須藩から養子として迎えた甥の治行とその子も早世。11代将軍の徳川家斉の四男・敬之助を養子とするもまたも早世。ここまで続くのは普通のことではない。 一橋治国(家斉の弟)の長男・斉朝を養子として、ようやく第10代尾張藩主として相続することになった。 ここで初代義直の男系の血筋は途絶えてしまう。 この後、11代斉温、12代斉荘は将軍家斉の子、13代慶臧は御三卿・田安斉匡の子と、尾張徳川家の血が薄れた。尾張徳川家としては危機感を抱き、同時に将軍家に対する反発も募っていったと考えられる。 こうした流れの中で誕生したのが、14代の慶勝だった。尾張藩ではないものの尾張藩支藩の高須藩の出ということで、尾張徳川家に近い人間ではあった。
戊辰戦争で奔走する
家督相続後に、第12代将軍・徳川家慶より一字を譲り受けて徳川慶恕(よしくみ)と名乗った。 藩主となったのは1849年なので、このとき25歳だった。 思想としては尊皇攘夷の人だった。これは初代藩主・義直の教えでもある。 質素倹約によって尾張藩の財政を建て直そうとする一方で、幕政にも深く関わっていくことになる。 1853年にペリー率いる黒船がやって来ると日本は上から下まで大騒ぎのてんやわんやになった。 1858年に大老の井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結ぶと大きな反発が起きた。慶恕(慶勝)も水戸徳川家の徳川斉昭らとともに江戸城に押しかけて猛抗議をしている。 しかし、逆に隠居謹慎を命じられ、家督を弟の茂徳(15代藩主)に譲ることになった。 その後、安政の大獄に対する反発で井伊直弼が水戸藩士らによって桜田門外で暗殺されると(1860年)、慶勝は隠居を解かれ、表舞台に戻った。慶恕から慶勝に改称したのはこのときだ。 1863年に慶勝の子の義宜が16代藩主になると、慶勝は後見人として尾張藩の実権を再び握ることになった(義宜が死去した後、再び17代当主となる)。 同じ年の八月十八日の政変、翌1864年の池田屋事件、禁門の変などが立て続けに起き、慶勝は長州征伐の軍総督に任命され、長州に赴くことになる。このとき徹底した弾圧を主張した幕府に対し、慶勝は穏便に事を済ませるために動き、丸く収めて見せた。ここで本格的な内戦になると外国に攻め滅ぼされる恐れがあると読んだためだろう。 1867年、15代将軍徳川慶喜が大政奉還。薩摩藩主導で明治天皇を中心とする明治新政府が樹立された。慶勝も新政府に迎えられている。 翌1868年、鳥羽伏見の戦いが勃発。高須兄弟は新政府軍と旧幕府軍とに分かれて戦うことになる。
青松葉事件とその後
このとき、尾張ではひとつの大きな事件が起きた。それは後に青松葉事件と呼ばれるようになる。 尾張藩内で勤王派と佐幕派が真っ二つに割れて争う事態となっており、佐幕派をどうするかという判断は慶勝に委ねられた。 新政府軍や朝廷から命じられたともいわれるのだけど、結果的に慶勝は佐幕派の弾圧に踏み切った。重臣から藩士まで斬首された者が14名、処罰されたのは20名だったとされる。中には無実の者もいた。 鳥羽伏見の戦いから箱館戦争に到る一連の内戦を戊辰戦争といっている。この戦争において新政府軍側で慶勝が果たした役割は小さくないものだった。 東海道沿いの諸藩に対して新政府軍側につくようにという説得工作を行い、それが成功したおかげで新政府軍は無抵抗の東海道を進んで江戸城に到ることができた。もし、慶勝の説得工作がなければ東海道で多くの戦闘が起きて被害が大きくなっていたはずだ。江戸城の無血開城もなかったかもしれない。 一方で旧幕府側についた会津藩主と桑名藩主の弟たちの助命嘆願にも奔走した。おかげで弟たちは助かり、後に再会を果たしている。
政界から身を引く
戊辰戦争終結後、慶勝は幕政からは身を引いた。 明治3年(1870年)に名古屋藩知事に就任。 明治8年(1875年)に16代藩主義宜の死を受けて再び当主になる。 明治11年(1878年)、北海道開拓に尾張藩士を送る活動を主導した。 胆振国山越郡の150万坪を無料で譲り受け、慶勝はそこを八雲と名づけた。熱田神宮の祭神の一柱である素戔嗚尊が歌ったとされる「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から採ったという。 八雲の地名は今も八雲町として残り、八雲神社では熱田神とともに慶勝も祀られている。 明治13年(1880年)、養子の義礼に家督を譲って隠居した。 明治16年(1883年)、本所横網町にて60歳で死去。新宿の西光庵に葬られた。
慶勝のその後
慶勝の正室は陸奥二本松藩藩主の丹羽長富の娘・矩姫(かねひめ)で、側室は4人いた。 子のうち、2男4女が成人して、その子孫はつながっている。 慶勝は明治31年(1898年)に名古屋東照宮に合祀され、明治43年(1910年)に尾陽神社が創建され、初代藩主義直をともに祀られた(大正13年に現在地に移された)。 慶勝は写真を趣味としていて、明治初期の名古屋城や江戸の風景などの貴重な写真が残されている。慶勝自身も入った高須四兄弟の写真もよく知られている。
尾張徳川家とは
徳川御三家筆頭である尾張藩がどうして新政府側についたのか疑問に感じている人もいるだろうけど、尾張徳川家と徳川将軍家との確執の歴史を知るとある程度納得するものがあるのではないかと思う。そもそも、初代藩主義直と3代将軍家光のときからモメていたのだ。その確執の歴史は長く根は深い。尾張徳川家からひとりの将軍も出せなかったことのひがみみたいなものもあったに違いない。 歴史にifはないというけれど、尾張徳川家と徳川将軍家だけ取っても多くの違う可能性があった。ひとつ違う選択をしていれば結果は大きく異なっていたかもしれない。今更そんなことをいっても詮無いことだけど。
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