母・お亀の方紆余曲折を経て
徳川家康の九男で、初代尾張藩主。初代名古屋城主でもある。 生まれたのは関ヶ原の戦いの翌年、1601年1月2日(慶長5年11月28日)。 母親のお亀の方という人はなかなか波乱に富んだ人生を送った人で、家康の側室になるまでに紆余曲折があった。 父親は京都・石清水八幡宮(web)の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家の志水宗清。 この人は京都・正法寺(web)の人で、正法寺は754年に唐から渡来した智威大徳が修行した坊に始まり、延暦年間(782-806年)に最澄が建立したと伝わる古刹だ。空海ともゆかりがある。 母親は石清水八幡宮神主の田中甲清の娘だった。 最初、竹腰正時に嫁いで竹腰正信を生む。竹腰正信は名古屋城普請の監督で、後に尾張家の附家老となり、竹越家と犬山城の成瀬家は幕末で附家老を務めることになる。 夫・竹腰正時と死別した後、石川光元の側室となって光忠を生むも、石川光元の正室の浅井氏の嫉妬を買い、実家に戻されてしまう。 その後、奥勤めをしているところを家康に見初められ側室となり、仙千代(1595年/6歳で死去)と五郎太丸(1601年)を生んだ。この五郎太丸が後の義直だ。 義直が生まれたのは家康57歳のときで、それでもすごいのだけど、さらにこの後、10男頼宣と11男頼房が生まれている。頼宣は紀州藩の初代藩主となり、頼房が水戸藩の初代藩主となっている。家康晩年の三人の子がそれぞれ徳川御三家の祖となったということだ。
徳川義直の生涯
五郎太丸が生まれたのは、大坂城西の丸という説と、京都伏見城という説がある。 お亀の方がどの程度家康に付き従っていたのかは分からないのだけど、五郎太丸を妊娠した1600年3月頃の家康はおそらく大坂城西の丸にいた。このときの大坂城にはまだ豊臣秀頼がいる。関ヶ原の戦いは1600年の9月だ。 関ヶ原の戦いの後、家康は大坂城で戦後処理を行っているので(江戸にいったん戻るのは1601年11月)、お亀の方はそのまま大坂城で五郎太丸を出産したと考えるのが自然だ。 1603年、五郎太丸は甲斐25万石を拝領して甲府藩主となった。このとき2歳なので、実質的な甲斐支配は家老の平岩親吉や徳川家の直臣旗本の武田遺臣らが行った。 五郎太丸は家康が居城とする駿府城で母のお亀の方とともに成長することになる。 1606年元服。 1607年、家康4男の松平忠吉が病死したため、その領地だった清須を引き継ぐ恰好で尾張国清須藩主となった。ただし、このときも任地には赴いていない。 尾張国の首府が清須から名古屋に移されることになり、名古屋城が築城されるのが1610年から1612年にかけてのことだ。そのまま五郎太丸は名古屋城主となる。 1614年の大坂冬の陣で初陣。翌1615年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いに参戦している。 この年に浅野幸長の娘・春姫を正室に迎えた。 1616年に家康が駿府で死去。その後、五郎太丸は母のお亀の方を伴い、名古屋城に移った。お亀の方は家康の死後、相応院を名乗った。 若い頃は平岩親吉や附家老の成瀬正虎、竹腰正信などに藩政を任せていた。 この竹腰正信は上にも書いたように母お亀の方の異父兄に当たる。別の異父兄の石川光忠も尾張藩士として取り立てている。 義直に改名したのは1621年のこととされる。それ以前には義知、義利、義俊とも名乗っていたようだ。 正室の春姫とは子供に恵まれなかったため、家臣の勧めで津田信益の娘・お佐井とお尉の方を側室に持った。お佐井は春姫が亡くなった後、継室となる。 お尉の方が生んだ光義が後に二代藩主・光友となった。 この他、お尉の方との間に京姫がいる。 長じると自ら藩政を積極的に行い、熱田新田などの新田開発や灌漑用水の整備などに力を入れた。税制改革も行っている。 思想的には尊皇攘夷の人で、これが幕末まで続く尾張藩の基本思想となっていく。 文武両道で学問を好み、藩士には儒教を奨励した。藩内に孔子堂も建てている。 現在の蓬左文庫(ほうさぶんこ)は義直が開設したもので、収集した蔵書を広く開放した。 また、林羅山に師事し、神道にも造詣が深かった。 著書に『類聚日本紀』や『神祗宝典』などがある。 武術方面では、柳生利厳から新陰流兵法の指南を受けている。 鷹狩りが好きで、よく春日井原や水野方面に出向いていた。その縁もあって、水野(瀬戸市)の應夢山定光寺に自分を葬るようにという遺言を残した。 1650年、江戸藩邸で死去した。50歳。死因は中風だった。
遺言通り定光寺に眠る
遺言通り、定光寺東北の山上に徳川義直の廟墓が造営された。 死後は諡号の源敬公(げんけいこう)で呼ばれる。そのため、廟墓は源敬公廟ともいう。 明人の陳元贇が設計したもので、義直が信奉していた儒教思想に基づくものとなっている。 墳墓の周りを唐門、殿舎、瓦葺土塀が取り囲んでいる。 その後、殉死者の墓なども作られた。 名古屋城から定光寺へと向かう道は江戸時代を通じて殿様街道、御成道などと呼ばれるようになる。名古屋城下の大曽根から新居(尾張旭市)を通って水野へ到る道は、尾張藩の歴代藩主たちも通った。 二代藩主の光友以降は、光友が義直の菩提を弔うために建てた徳興山建中寺(web)に葬られた。水野に思い入れがあるのは義直くらいで、通うには遠すぎるというのもあったのだろう。
義直の人となり
義直という人はひとことでいうと堅物ということになる。 家康に将来を見込まれて英才教育を受けたことと、家康の実子という思いも強かったようで、三代将軍で家康の孫の家光とはたびたびぶつかった。あわや一触即発というところまでいっている。 何故か命を狙われると思っていたのか、寝ているときも刀を枕元に置き、手足を動かしながら目を開けて寝るという技を会得していたという話がある。本当か。 義直が家康を祀るために名古屋城内に建てた東照宮はかなり豪華絢爛なものだった。家光はそれを見て、日光東照宮をど派手にしたのかもしれない。 第二次大戦の空襲で焼けるまでは国宝に指定されていたから、名古屋城天守と本丸御殿も空襲で焼けなければ今頃はこれらをあわせて世界遺産になっていたはずだ。 義直の一人息子だった二代藩主の光友も優秀な人だった。有能さでは父親を超えていたかもしれない。 しかしその後、義直直系の血は途絶え、他から養子を迎えるなどして尾張御三家筆頭の尾張徳川家は明治まで存続するものの、江戸時代を通じてついにひとりの将軍も出すことなく終わった。それも名古屋らしいといえば名古屋らしいといえる。名古屋の人間は外に出ると出世するけど名古屋にとどまると出世しないというジンクスみたいなものがある。
義直と神社
義直が建てたとされる神社に、宗像神社(浄心)がある。宗像から三女神を勧請して三社に祀ったという話があるのだけど、それがどうなったのかはよく分からない。宗像神社がそのうちの一社なのか、これは別なのか。 義直自身は、尾陽神社に最後の藩主・徳川慶勝とともに祀られている。 東照宮で祀られていた義直(明治8年)と慶勝(明治31年)を合祀して明治43年(1910年)に創建された。 古渡稲荷神社でも義直は祭神の一柱として名を連ねている。
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